自殺について考える

「子ども救うのは大人の役目」息子亡くした篠原真紀さん #こころの悩みSOS

毎日新聞

を読んだ。


私の意見は、誰かを傷つけるかもしれない。

書いて公開するのに、少し勇気がいる。


自殺について考える、をもっと正確に書けば、

自殺が繰り返される日本の学校の在り方を考える、であり、

日本人の本質を考える、であり、

今後の世界を考える、と書いても良かろうと思う。


日本にはたくさんの学校があるが近年、渋谷教育学園幕張高等学校と花巻東高校の躍進が目立つ。

どちらも私立。

気になってググると、偏差値に大きな隔たりがあった。

渋谷教育学園幕張高等学校 76

花巻東高校 42−49

教育方針は

渋谷教育学園幕張高等学校 自調自考(自分を調べ、自分を考える)

花巻東高校 立志夢実現

である。

かたや世界のリーダーを養成すべく、かたや自身で定めた目標に邁進する場所なのだろう。

この2校に、いじめ問題があるか私は知らない。

なさそうだなと思うし、なかったらいいなとも思う。


多感な時期、子供たちは世界の中で色々なものに守られながら生きる。

そのうちの一つが学校である。

学校は本来、そういう場所であるべきだ。

しかしその昔立川談志さんが言ったように、学校は学校の先生のためにある。

学校に子供たちを守る機能があれば、自殺は起こりにくい。

しかし特に公立の学校の多くでは、それは望むべくもない現状なのだろう。

これは学校だけではない。

公の省庁、警察や消防などもそうだが、基本事なかれになってしまった。

変化しない事が正義、という具合だ。

私は生物学の末席にいる。

生命の特徴は、変化し続ける事だ。

変化しなくなるとは、死を意味する。

ゆえに私には、公の機関が死んでいるように見える。

この記事からいろいろググって読んだいくつかの記事の一つ、クリスマスの物語。

https://bunshun.jp/articles/-/49685

真矢さんが読んだ物語は笑われ、最後まで読まれる事はなかった。

このクラスの状況は、決して特別ではないように思う。


日本には、聖徳太子の言葉よろしく、和をもって尊しとなす、という文化が存在する。

それは日本に「空気」として存在する。

「空気」に「水を差して」打破する事は容易くない。

「空気の研究」でお馴染みの山本七平さんは、小松真一さんの「虜人日記」を元に、「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」を執筆された。

私はこの本に日本人の本質が詰まっていると思うし、それこそが我々日本人が乗り越えなければならないものの正体だと思う。

私の中学時代はずいぶん昔だが、思い出すと私にとってそこは、身動きの取れない場所だった。

ADHD/ASDグレーという訳のわからない言葉の分類に当てはまる私にとって、日本の教育機関に所属するのはなかなかに過酷であったが、それは何も分類のせいではなかろう。

高い学力、運動能力、社会性など備える一部の人間なら、初めて放り込まれた中学という社会集団をなんとか乗り越える事もできよう。

だが、多くの人間にとってそこは、地獄となりうる。

学問とは勉強であり、本来楽しくてやりたいからすべきものだ。

だが、「義務教育」というように、教育は義務として行われる。

本来これは大人である親に課されている。

子供には課されていない。

しかし、義務なのだというのが変わらないお題目となり、いつしか勉強は子供の義務となった。

本来子供には、何一つ義務はない。

義務を負うのは大人でなければならない。

だが今の学校では、子供たちを義務でしばる。

すると、子供の心にヒビが入る。

この世界は、義務に満たされている。

子供でさえこれほどの義務なら、大人になった時の義務はどれほどのものだろう。

この世界は生きたいように生きられないのだ、と。

残念なのは、義務遂行に長けた大人が教師につく事だ。

義務遂行能力は、なかなかに得難い能力なので、彼らは有能な大人である。

しかしその彼らは、さらに義務遂行能力の長けた省庁の人々によって選ばれ、彼らの意向し従って仕事をする事になる。

彼らもまたしばられている。

皆、与えられた仕事をしているだけで、ここに悪者は存在しない。

問題なのは、変化しない事を是とする日本の省庁の現状だ。

大臣が、とか、長官が、校長が、主任が、担任がではない。

ではなぜ日本の機関はそうなってしまったのか。

彼らは優秀である。

子供の頃から義務を遂行してきた。

勉強を強いられ、あるいは誉められ、あるいは抜きん出て、彼らは勉強という義務を遂行し、そして省庁へ至った。

勉強ができる、勉強をする、それが偉いのだ、というのが、心の根底に浸透する。

彼らは悪いだろうか。

大人に言われるがまま勉強し続けただけなのである。

そうなると、自分達の良しとしてきた物を信じ、それを遂行しようとする。

何も悪くない。

勉強にそっぽを向き漫画を描き続けた友人、ギターを弾き続けた友人、バイクで走り続けた友人は、勉強という義務をはたさなかったのだ。

ゆえに、自分の方が偉くて当然なのだ。

彼らは過酷な労働環境の省庁で社会を支え続けている。

ゆえに現場の大人も過酷に頑張るのが当然であり、子供のうちから義務を果たすのも当然だ、となる。

「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」にあるように、間違いだとわかっていながら、やるだけやった、だから仕方がないという発想は、一人ひとりに自調自考があれば防げたし、一人ひとりが立志夢実現を掲げて生きれば防げただろう。

日本に蔓延する「空気」は、日本人から考える力を奪う。

私は、河合隼雄さんの「中空構造日本の深層」にあるように、日本人の中心精神は空があると思っている。

が、そこを外国にうまく利用されたとも思っている。

すなわち、日本人の思考を停止させる方向で様々な仕掛けがなされている、と思っている。

高校までのカリキュラムを見てもそれは一目瞭然だ。


ゆえに私は、現代の日本では学校に行かなくてもいい、と思っている。

無論、極論だ。

だが、少なくとも今の学校には、子供には無理ゲーと思われるトラップが多すぎる。

大人の先生でさえ無理ゲーであり、校長やその上でさえ無理ゲーなのである。

それを子供にさせてどうする。

子供は命を落とし、親兄弟や級友は傷つき、先生は無力感に苛まれ、学校や省庁関係者は対応に追われ、原因を追求し、再発を防止するという。

現状では、再発防止は不可能である。

別の記事で、クラスで英語の音読の時間がとても辛い、という別の子供の記事を見た。

今の学校では、学ぶ事が恥ずかしい。

江戸末期から明治の映画を見れば、子供たちが論語を大きな声で唱えながら歩く姿を見る事ができる。

学ぶとは、失敗の繰り返しである。

これを楽しんでやれるのが、真の子供であり、真の教育でなければならない。

さらに言えば、大人になってもそれを継続できる大人が、社会に多様性と成長と変化と豊かさをもたらすのだ。

失敗の繰り返しを恥ずかしいと思うか、挑戦を続けているのだから誇らしいと思うか。

これだけとってみても、すでに今の学校が機能していない事がわかる。

人々が皆、やりたいことだけに没頭して生きる世界。

おそらくそれが本来あるべき理想だ。

だが、義務を是として成り立つ国家でそれは難しい。

加えて、資本を持つものが富を得るのが是となる世の中である。

社会主義が機能しないのは明白だが、資本主義も限界である。

DAOはもしかすると、突破口になるかもしれない。

話を戻す。

西田幾多郎は「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」
と言った。

それは自分勝手に生きる事ではない。

一人一人が自調自考し、立志夢実現するように生きる事である。

自身がそうであってこそ、他者を尊重できるし、そもそも他人をいじめている暇などなくなるのだ。

2校の内情を私は知らない。

しかし、その活躍に期待するし、もっとそういう学校が増え、そして願わくば公立でも、と思う。

真矢さんのクリスマスの物語を読むと、我々は良きストーリーテラーを失ったのだとわかる。

願わくば彼の書く話をもっと読んでみたかった。

彼が生きてたくさんの物語を書き続けたなら、きっと誰もが振り向く素晴らしい物語が紡がれた事だろう。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?