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20230916記録

・読みました。

・読書用として電子版を、インテリアとしてノベルス版を購入したのですが、うっかり後者で読んでしまいました。右手でキープする分量が増える後半が本当に読みづらく、体験の純度を落とすノイズとなってしまい、反省しています。本当は、初読時はまっすぐに作品を受け取るために電子版で読み、再読ではノベルス版で読んで物質本にインテリアとしての機能を付与するつもりだったんです……。読み直す時は、電子版で読む。

・読むのにはまる1日かかりました。一昨日に朝の6時から夜の1時まで軽食をとりながら読み通した格好です。昨日は1日中、鵼疲れで寝ていました。エンターテイメントとしての熱を帯びた作品ではなかったこともあり、穏やかに、しかし、度し難く、ひとつの作品世界に肩まで浸かることができました。得難い読書体験だったと思います。

・以下、感想をつらつらと。散文的かつ個人的な読書体験の記録となるため、感想文と呼べるほどのまとまりはないです。あと、ネタバレを含みます。

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・初っ端からかなり濃く鵼の話をしてくる。鵼は鵺じゃないって話をずっとしてくる。17年ぶりのシリーズは「お前ら『鵼の碑』出せ出せって言うくせに、いっつも『鵺の碑』って誤字ってたよな?」と京極夏彦からガンづめされるところから幕を開ける。

・開幕早々、登場人物の創作物を長々読まされるこの感じ。『陰摩羅鬼』が『姑獲鳥』の姉妹編だったみたいに、今回は『魍魎』と対になる作品なのか?と思いましたが、どうやらシリーズ過去作のピースをまんべんなく散らす趣向だったようですね。なるほど、確かに、鵼ですね。登場人物たちの「過去の事件」についての言及も、いつもより多かった気がします。具体的にどの作品がどの部位となっているかまでは初読では解し切れなかったので、今後の宿題です。蛇は『姑獲鳥』でしょうか。

・物語のスタート時点で、オチとなる作品構造を全て説明し切り、そこからゆっくり時間をかけてその構造を基盤から組み上げてゆくこの感じ。言葉の部品に精緻なやすりをかけ、整理し、妖怪のプラモデルを精緻に組んでゆくこの手つき。ああ、自分は今、百鬼夜行シリーズを読んでいるという実感に満ちています。

・それにしても今回は、『陰摩羅鬼』以上に「わかった」前提で読む作品であったと思います。作品構造はおろか、それを京極堂がどう落とすのかまで、久住さんが最初に全部創作ノオトでネタバレしてしまっている。「なるほど、5つの出来事がひとつの事件に収斂すると見せかけて、実は全部別個の出来事なんだな」「憑き物落としをすることで、1つに見えた事件が5つの出来事に解体され、『事件は実は起きていなかった』という形で鵼が落とされるんだな」 ……ここまで事前に説明を受け、承知した上で、本編を読み進めることになる。少なくとも私はそうでした。

・事実、5つの事件は、一見するとミステリとしての王道をたどるように、収斂を見せてゆくわけですが……その「真っ当な」おもしろさが高まってゆく中で、構造と解体法が全部既知であることが効いてくる。「本当にやるのか」「ここまでやって、本当に収斂させないのか」「本当に鵼は居ないのか」……ミステリとしてはありえないはずのことが起こるという戦慄が、事件同士が徐々に繋がってゆく盛り上がりの裏にずっと不穏に張り付いていて、それがべらぼうにおもしろかった。

・「推理小説として読むこともできる妖怪小説」にしか書き得ない、推理小説として唯一無二の光景こそが、私が本シリーズに求めるひとつであり、今回もそれは見事に果たされました。熱量がふっと冷め、世界が無色に色落ちる今回の解決編は、しびれるほどに新しく、呆気にとられるほどに何もなく、そしてたまらなく淋しい……見たことがないミステリ体験を与えてくれました。高めたカタルシスの予兆を、すべて足払いをかけて抹消してしまう、この呆けざるをえない瞬間。事件はなく、ただ、鳥が啼いているだけ。解決編があったはずの何もない空間で、読者はただぽかんと立ち尽くすしかない。

・ああ、17年待った甲斐がありました。

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・桜田登和子と寒川秀巳は、『百鬼夜行 陽』からの付き合いだったこともあり、久しぶりに再会できて嬉しかったです。17年経っても相変わらず墓の火と蛇帯に憑かれてて、気の毒だなと思いました。

・寒川はともかく、桜田は多田マキくらいの位置づけのキャラクターだろうと思っていたので、がっつり本編に絡んできて驚きました。とはいえ、彼女が中心人物を務める「蛇」編は、あくまで久住の物語であり、彼女本人はほとんど焦点があたることがないんですね。蛇帯が落ちる姿もほぼ行間で済まされ、舞台の上にはほんの少ししか上がらない。

・「当事者」が主役ではないことは、この作品の肝だと思います。

・桜田の告白を耳にした久住、寒川と交流がある御厨とその話に魅せられた築山、長門から事件を任された木場、そしてそもそも何の問題も抱えていない緑川。5人の主役は全員が出来事の当事者ではなく、そのまた聞きのオーバーラップの中で、なにかわからない化け物がゆるりと輪郭を露わにする。バードウォッチングの当事者ではない、遠くの「鳥の声」を聞いた者だからこそ、鵼が身を起こす余地がある。

・そして、当事者であるにも関わらず、鵼に憑かれてしまった時点で、もう寒川は彼岸に渡ってしまっていたということなのでしょう。そこに居る死体が見えないように、居ない鳥を見てしまったということなのですから。彼が迎えた結末は、『魍魎』を彷彿とさせるものですが、荒涼とした大地をひとり行く彼の姿が「羨ましく」映ったのとは異なり、山に分け入ってゆくその背中は、本編でも語られている通り、たまらなく「淋しい」ものでした。

・その差異は、そのまま『塗仏の宴』で語られた時代の変化であり、『陰摩羅鬼』を経た関口の変化でもあるのでしょう。彼岸に渡る彼らの姿は、もう青く見える隣の芝生ではなく、会えないほどの遠くへ旅立つ別れになってしまった。遠くで啼く鳥の声になってしまった。「生きていれば会えないこともない」とは言え、それはやはり「羨ましい」のではなく、「淋しい」。

・キャラクターの話をするならば、益田もよかったですね。清涼剤。

・辛気臭い連中がうだうだ思い悩んでるこのシリーズにおいて、平場で活躍することができる益田の軽妙さには、可読性の面で大変助けられます。定期的に「こいつ、実は根暗なんすよ」と補足が挟まるのも味がある。読んでて10回くらい、益田が実は根暗な話をされた気がする。そんなことを何度も書くのはかわいそうだと思う。

・あと、緑川ね。

・何?

・シドニー・マンソン?

・17年越しに再開したシリーズで、これまで陰も形もいなかったメインキャラクターが1人増えるの凄すぎる。榎木津と京極堂と関口の旧知の奴が、虚空からいきなりPOPして、なんか仲良さげに歓談してるのを一体どういう気持ちで読めばいいんだ。本作のいちばんの衝撃はここだった。誰なんだお前は。関口くん、どういうことだ。どうして今まで教えてくれなかったんだ。一緒に羨ましくなったり、伯爵の真相を見抜いたりした仲じゃなかったのか俺たちは。

・いや、キャラクターが作品構造に隷属している本シリーズにおいて、「メインキャラクター」という概念は見当はずれなんですが、明らかに複数の作品に適用可能な汎用性と強度を備えたキャラクターであり、これは……出るな、今後も!という厚みを帯びている。

・余談ですが、私はずっと前から京極堂が登場しない百鬼夜行シリーズ本編を読んでみたいなと思っており、緑川の現代的(?)な視点は、それもこなせるのではないか、という期待も感じさせます。『塗仏』以降、妖怪の滅びと、憑き物落としの経営不振が構造に取り込まれがちなこともあり、緑川は次のフェーズの中心人物になってゆくのかな、と。そうしたシリーズ内での時代の変遷が、趣向としてある種の頂点に達したのが本作であり、ゆえに、彼女が今回から登場したのも、それなら肯けるかなと。

・京極堂、関口、榎木津、木場、緑川のいつもの5人の活躍を、今後も楽しみにしております。

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・『遠巷説百物語』や『書楼弔堂 待宵』の時点でかなり顕著でしたが、最近の京極作品は、ストーリーではなく(元々大いにそうだったとは言え)「構造」を通して何かを作る手口に大きく偏重していて、本作においてもそれは極まっていたと思います。お話やキャラクターを通して鵼という妖怪を語るのではなく、お話やキャラクターをパズルように組んで鵼という妖怪を作る。人工美を極めた、原子怪獣・鵼の製造過程と、その殺し方についての設計図。

・鵼の5つのパーツを5つの話にし、各々を書き出しを揃えた6章に分割する。そうしてできた、5×6 = 30ピースを並び替え、モザイクアートのように鵼を描画する。6章目に限り、書き出しは異なっており、そこが組みあがった鵼をほどく「ほつれ」として機能する……ここまで、やっている割には、30ピースの並び方に規則性がなく、強いていうなら、しっぽから順に濃淡をつけて配置しているのかな、京極作品にしては厳密性が緩いな……と、途中までは思っていたのですが、目録とにらめっこし、話順にもしっかり規則があることに気がついてびびりました。四角形を左上から45度に塗っていってるんですね。整理整頓の魔人だ。感嘆というより、呆れてしまう。

・テキストを部品として、何かを作る。その手つきは小説というよりも、工芸品のようで、京極夏彦の仕事を分類するなら、やっぱりそれは「職人」になるんじゃないかなと思います。

・にしても、今作の人工っぷりは凄い。シリーズ内でも極め付けではないでしょうか。強いていうなら、円城塔の小説に似ている。

・出来事の「当事者」が主役を務めないこともあり、本作は本当に大したイベントが起こりません。なんか、ふわっと違和感があるな、みたいな中で、主役たちがその辺のおっさんやおばさんと四方山話をしてる様が、30分割されてゆるゆるとお出しされてゆく。パズルの1ピース1ピースが限りなく無色に近い。群像劇と呼ぶにはあまりにもそこには中心がない。正体がつかめず、知覚できない。メモをとるにも、焦点をあわせるべき部分がない。

・ただ、一見無関係に見える、四方山話の中で、『鵼』という妖怪が、様々な比喩や言い換えを通して、しつこくしつこく語られてゆく。無色のピースをいくら組み替えても、そこに絵ができることは決してないはずなのに、意識しない部分、記憶しない部分に、文脈という名の呪いが刻み込まれ、錯覚のように紙面に「鵼」が浮かび上がってゆく。冒頭で「鵼は居ない」ことが明言されているというのに。こんなにも、紙面上では何も起きていないのに。

・本作の、最も凄いところはここだと思う。

・「なるほど、5つのお話がひとつの事件に収斂すると見せかけて、実は全部別個の出来事なんだな」「憑き物落としをすることで、1つに見えた事件が5つのお話に解体され、『事件は実は起きていなかった』という形で鵼が落とされるんだな」……冒頭で全ての説明を受け、最後のオチまでわかり切った状態で読んでいるにも関わらず、そこに、推理小説的解決を……鵼の姿を感じてしまうことが、本作の凄味であり、おそろしさです。

・既知という覆し得ないはずの碑すらをも、正面から破ってみせる、小説という虚構の刻み込む力……『鵼』の碑。「居ない」と事前に明言されているからこそ、それでもなお、そこに「居る」気配がたちのぼってくることに、たまらない怪しさと妖しさを覚えますし、それを成立させる技量には、ゲームのスーパープレイを見せられたような素朴な感動も覚えます。こんなにもハンデをもらっているにもかかわらず、鵼を感じてしまうなんて。

・『陰摩羅鬼』と同じく、「すぐに真相がわかってしまう」ことに大きな意味があり、それがおもしろさに大きく貢献するよう設計された作品であると思います。『鵼』を描くためには、この構造を要し、この構造には必然的にこの分量を要することが、事実として目録に現れている。本作を十分に楽しむためにも、推理小説に呪われておいてよかったなと思いました。

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・本作の凄味が、徹底した理詰めによる鵼の組み上げによって、読者の既知を打ち破ることにあるならば、本作の肝は、やはりその後、それほどに強固に作った鵼を落とすことにあるでしょう。京極堂が主人公でないとはいえ、憑き物を落とす(あるいは、落とせない)ということは、やはりこのシリーズの核になっているものだと思います。

・とはいえ、その落し方についてすら、本作は冒頭で提示済なのです。落とされることがわかっているにも関わらず、顕現せしめた鵼の迫力と比べると、今回の憑き物落としは、当初の設計図通りのものが進行されているにすぎず、かつ、対象の構造があまりに明白であるがゆえに「ほどきやすい」こともあり、かなりあっさりしたものでした。何しろ、解体して別れる部品の数までわかっているのです。「何も居ない」と知っていることに、「何も居ないんだよ」と念押しがされる。全体を俯瞰する読者にとって、魔法が解ける一瞬は強烈ですが、そこから続く個々の登場人物に向けたミクロな憑き物落としはさほどドラマチックなものとはならない。

・しかし、本作は、そういった推理小説的な切り口に重きはないように思います。「鵼を落とすとはどういうことか」、付け加えるならば、「妖怪小説において、鵼を落とすことは何を意味するのか」が、この小説の結末であり、肝であったなと。

・『鵼の碑』とは、すなわち、御行の又市の失敗であり、離職であったこと。

・鵼の構造から落し方に至るまで、読者に対して冒頭に明示し、全てわかった前提で読んでゆく中で、「では、その構造と落し方は何を意味するのか?」の解釈においてのみ、本作は読者の先を行きました。化け物遣いたちの登場と別れは、決してただのファンサービスでもサプライズでもなく、この構造から導かれる必然でありました。無色の30ピースを、この規則をもって並び替え、鵼を作ったならば、確かにこの位置には、彼らが居るはずだと納得させる理が、この小説には確かにありました。

・鵼が居ないと、最初から全てわかっていること。居る鵼がどう落とされるかも明白であること。居ないものを居るとする決着は、このシリーズは迎えないということ。読者に与えられた前提は、御行為奉にはあまりにも厳しい作中世界の環境そのものであり、その環境下であってすらそれが「居る」と感じられるのならば、それは偶然ではなく明確な作為によるもので、そんなことは、それを営みにしている連中以外にできるはずもなく……。

・誰かの作為なくして、ごく自然に妖怪が生まれることはもはやなく。事実、この小説は、徹底した人工美が極められていて。そうして妖怪を作ったとしても、それは寒川を彼岸に渡すことしかできず、それは人を辞めた幸福の獲得であるかもしれないが、もう「羨ましい」ものではない。化け物遣いはもうこの時代では有効ではなく、それは最早、仕事にならない。妖怪はもう機能せず、ただ、化け物の幽霊だけが、山の中に取り残されている。

・鵼の碑とは、どこにもそんなものは居ないと誰もが知っているものを、朽ちることのない文字として刻む、祈りです。刻む文字を読める者はなく、読まれないテキストに意味はなく、そこにはただ淋しさだけが漂っている。無意識が鳥の声に反応し、淋しいという気持ちだけが参照され、幽霊として呼び起こされる。

・シリーズの優劣を決めるナンセンスを犯そうとは思いませんが、それでも『鵼の碑』がどこに位置するかと聞かれたならば、「シリーズで最もタイトルが優れた1作だった」と私は答えます。

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・四方山話。

・榎木津は関口のことを「関」と呼ぶって話だけど、こいつ鉄鼠あたりから「猿」としか読んでねーじゃねーか問題が、ついに作中で言及されたのには笑いました。

・しかし、本作の榎木津の活躍しなさは凄かった。じゃんけんの話と、笹村一味の案内しかしていない。陰摩羅鬼よろしく、偽サイクロトロンの破壊くらいやらせてあげてもよかったんじゃないかと思うんですが、寒川が全部やってしまった。ていうか、鉄製品を破壊する寒川の攻撃力はなんなのか。化け物(モンスター)……。

・長門さんの念仏が、めちゃくちゃ打算的な理由だったの、地味にショックだったよ。謝ってほしい。

・次作予告、めちゃくちゃ嬉しかったけど、ようやく『鵼の碑』が読めた読者に、間髪入れずこれを与えてくるのは、もう「呪い」に近い行為だと思います。夢見ることから逃れられない。

・次作もとても楽しみです。

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