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最近読んだアレやコレ(2024.10.19)

 近場にあった理容室の店主が、現在居住圏の飲食店事情にとても詳しく、色々な店を教えてもらいました。休みの度にひとつずつまわっています。「春先から大陸に渡っているスタッフが夏の終わりに帰って来るため、麻婆豆腐の味は今の時期間違いないが、代わりにラーメンがおざなりになる」と紹介された中華料理屋が、確かに麻婆豆腐が美味しくて、確かにラーメンがおざなりだったのがおもしろい。「おざなりなのに、叉焼だけは飛びぬけて美味しいので、逆にバランスが悪い」と評されていた叉焼も本当にその通り。本人はめったに外食しないため、いずれの店にも行ったことがなく、客との雑談の重ね合わせから想像した内容を話しているだけだそうです。安楽椅子探偵ならぬ、安楽椅子グルメですね。

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鍵/筒井康隆

 偶然見つけたその鍵は、昔の家のものだった。そして、その家からは、駆けだしの頃のねぐらの鍵が見つかった。幾重にも施錠された入れ子構造の部屋は、鍵を開く度にさかのぼり、記憶を蘇らせてゆく……。迫りくる過去に押し流される標題作を始め、全16編を収めた筒井康隆自選短編集。

 著者本人による明記はありませんが、おそらくホラー縛りでの自選短編集。収録作品は全て既読ですが、この1冊としては初読です。短編集というものは、個々の作品内容だけでなく、収録作の選定と順序にも重みがあるもので、事実、こうした形で編むことでしかにじみ出ない味というものがありました。すなわち、本当に、心の底から、人間というものを諦め、嘲笑っている声が聞こえること。ヒトがヒトという構造である以上、精神にも肉体にも、どうしても脆弱な部分が生じうる。それはよく捉えるならヒトがヒトである証明であり、「愛嬌」として微笑むともできるでしょうに……。そんなお行儀のよさはここにはありません。むしろその隙につけこんで、足をひっかけて転倒させ、みじめに汚れたその顔を、指差し、踏みつけ、酷薄に笑っているのです。全ての人間賛歌を鼻紙のように丸めたその嘲笑は、神の視点の高度がもたらす背筋の凍る底冷えと、間抜けな肉袋が潰れるピュアな痛快さを表裏一体に入れ替え続けます。そして、そのカラーをとりわけ決定づけているのは、言うまでもなく標題作「鍵」、かの傑作「死にかた」、そして最後を飾る「二度死んだ少年の記録」の3編でしょう。共感も抵抗も肉も心も、全ては出来損ないの霊長の滑稽な猿踊り。虫の足でも千切るように、ヒトの気持ちをバラバラに毟る、ヒトでなしの遊びにふけりましょう。


クジラアタマの王様/伊坂幸太郎

 サラリーマンの岸が勤めるのは、製菓会社の広報部。業務上のトラブルに追われる岸だったが、ある夜、不思議な夢を見る。武器を持ち、凶暴な何かと戦っている夢……。そのゲームじみた空想は、現実の苦難とも繋がっていたようで、現実の岸の元にも意外な「仲間」を呼び寄せることになる。

「夢の中でボスを倒せば、現実の不条理も解決する」……そんな都合のいいおとぎばなしがあるはずもなく。しかし、「そんなことも、あるかもね」「いや、あるはずないって」と、軽いステップで両岸を飛び渡るこのお話は、そんな生真面目さを忘れさせてくれるものでした。どうしようもない不条理を、ふわりと受け流し身をかわす。伊坂作品のマジックは、虚実をシャッフルする手さばきにすら、気の抜けた鼻歌を差し挟みます。嘘に夢中になるのは当然でしょう。ゲームで遊ぶのが楽しいのも当然です。だったら、現実を直視する時、身がすくむほどの恐怖のただ中であっても、同じくらい肩の力を抜くことができるんじゃないの? そういった半笑いを、思いのほかタフに浮かべています。勇気は奮い立たせるだけでなく、とぼけた顔してストンと落ちてくることもある。「こっちもそっちも大変ですが、まあまま、それぞれなんとかやってゆきましょう」。現実と虚構の、さばけた隣人づきあいが愛おしい。とってもファンタジックな、励まされる1冊でした。

 ……ところで、本作では、夢パートを漫画で描き、現実パートを小説で書くという実験的な試みが行われています。しかし、その演出が適切すぎて、ノイズなく読めてしまうため、こうして補遺として言及するしかありませんでした。突飛なのに突飛に見えない。ディレクションが優れ過ぎている。


おそろし 三島屋変調百物語事始/宮部みゆき

 江戸は神田、筋違橋先の三島町。評判高い袋物屋「三島屋」が、本来の商いとは別に、奇妙なことをし始めた。江戸中から不思議話を持つ者を集め、十七になる主人の姪に聞きとらせているのだという。器量よしと評判の、おちかという名のその娘。何やらつらい事情があるようで。シリーズ第1巻。

 再読。宮部みゆきという小説の怪物が、ライフワークとして、本気で百物語をやってくれていることを、我々はもっと感謝すべきなのかもしれません。独立した怪談を短編集として並べるのではなく、それを語る者のお話と、それを聞く者のお話も整え、その全てを「百物語」という場の上に重ね合わせるという贅沢さ。ひとが怖いのではない。あやかしが怖いのでもない。怪談が恐ろしいのではない。浮世が恐ろしいのでもない。「おそろし」とは、語る口ぶりと聞くまなざしがもつれあい、幾重のレイヤーが被さって地層を成したその間(ま)から、するりと沸き立つものなのだということが、実作としてここに著わされています。そして、宮部作品特有の「悪」への凝視は、その切り分け不可能な狭間をまっすぐに貫き、怪談の語り手たちを見つめています。誰かに何か語るということは、浅ましいまでに醜く、そして力強い。ゆえに、百物語の聞き手である主人公・おちかが語り手側にまわる第3話「邪恋」は、本作の必然であり、重心と言えるでしょう。一方、最終話「家鳴り」の突拍子のなさにはなかなか驚かされるのですが……この愛嬌もまた、宮部作品のキュートな個性であると私は思っています。本を読んでいたはずなのに、紙面にいきなり画面とボタンが生えてきて、主人公を操作するゲームが始まるんだから凄い。ゲーマーの血が濃すぎる。


あんじゅう 三島屋変調百物語事続/宮部みゆき

 空き家に暮らす奇妙な獣。水を逃がす丁稚。箱入り娘に立つ幽霊の針。寂れた里に広まる木仏……いずれの話もこの場では、語って語り捨て、聞いて聞き捨て。江戸は神田、三島屋が始めた変わり種の百物語は、おちかの凍った心をゆるく溶かし、新たな縁をも結び始めていた。シリーズ第2巻。

 再読。幾重ものファクターが重なり合って百物語という場が生まれ、その全体から「おそろし」を立ち上がらせたのが前作でした。事の続きとなる本作は、「おそろし」とは別の何かが立ち上がるもの(第3話「暗獣」)や、継ぎ目なく組まれたかに見えた場が錯覚だったもの(第2話「藪から千本」)など、実に2作目らしい応用編めいた全4話となっています。百物語小説としての均整を、ひとつの方向にあえて大きく傾ける。おそろしいものをよりハードに恐ろしく、かなしいものをより愛おしくカワイイに。つまりは、コンセプトが立っており、キャラクターが立っている。語り手と聞き手の介在を残しつつも、お話がお話だけで成立しうる独立性がより強くなっている。1話あたりの長さが増しているのもそれが原因で……と評するのは賢しらにすぎるでしょうが、連作集ではなく短編集として、ひとつひとつをどっしり腹に受け止めながら楽しめたのは事実です。崩されたバランスは、1作目の完成度を貶めることはなく、むしろシリーズの領土をより広め。怪談は、継ぎ目なく形成された場からひとつのものを切り抜くこともでき、それは「おそろし」だけである必要もない。次巻以降は初読なので、楽しみです。できれば年を跨ぐ前に、文庫で出てる範囲は読み通したいですね。


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