デカルトの求めるもの、それは「アルキメデスの点」
私は存在しない?「存在すると思っている」だけ?
脱線:リアル・マトリックスの恐怖
私は在る、私は存在する!
考えるってどういうこと?
脳がなくても考えることができる⁇
私たちはものを実は目で見ていない⁉、目ではなく精神のみによって捉えている⁉
以上が「第二省察」の要約です。徹頭徹尾、デカルトは感覚を排除し、知性による洞察のみで「第一の確実な認識」としての「私の実在」、そして、その実在する私の何であるかを究明しています。デカルトが懐疑の遂行の果てに見出したのは、「私の実在」です。その私は、身体でもなく、何らの能力でもなく、ただ、思惟しつつ実在している自覚的存在だということです。これが徹底的な知性的な反省、方法的懐疑によってもたらされた自己認識であり、自覚です。私はおよそ何かについて判断する度ごとに欺かれ得るけれども、その欺かれる最中において自覚的に実在していることだけは現実に知っています。では実在していることが私とは何か。それは「考えるもの」です。しかし、「考える」とは対象を表現することではなくて、逆に自己の存在を表現すると見做されたときに、正しく私の本質を言い当てることができます。かくして、実在という観点からみた私とは大変孤独な存在だということができるでしょう。なぜなら、私が思うことは実は世界を表現しているのではなくて、私自身の存在を表現しているに過ぎないからです。そこで暴かれたのは感覚によって外の世界とつながっていると思い込みながら、実際には自己自身しか見ていない私のありのままの姿です。デカルトが例に挙げているように、窓から眺めている人もひょっとすると自動機械かもしれません。私はその姿形と言動から他者に心があると判断しているけれども、それはただ、そう判断しているにすぎません。この判断が如何に危ういかはAIの登場によって嫌が負うにも自覚を促され今日では現実的な危機となりつつあります。まさしくデカルトが言う通り、感覚は不確実であり、これまで下してきた一切がどれほど薄弱な基礎の上に建てられているか、ということになるでしょう。しかし、一切が不確実であるとしても、その徹底的な自覚を通してまさにその不確実性の中で私が存在していること、生きていることは確実な真理として光り輝いています。私たちは何ものについても移ろいやすい考えを持つに過ぎないのではなく、確実にものを知るということができます。知っていることが単なる思い込みではなく、その通り現実であるという揺るぎのない確信に到達することができます。不確実な現実を現実として捉え、自らの存在が現実を越えて確実性に到達できることも自覚できます。だからこそ、感覚を遠ざけ、この確信の内に留まり、それを心に刻み付けるように、デカルトは勧めるのでしょう。
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