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細川家考察つぶやきまとめ
過去にX(Twitter)でつぶやいていた細川家を調べていた時のメモまとめ。
忠興「あいつ狐憑きじゃね?」
忠興崇伝のこともきつねつきじゃね…て手紙に書いてて笑う
ガラシャのイメージ
玉ちゃんはキリシタンだからなのか、繊細で儚げなイメージが定着してるけど実の所結構男勝りというか勝気な人だよなあという印象。
本当に繊細だったら天下一気の短い男をあしらうような逸話何個も出ないと思うんだよ
侍女に宛てた手紙でもちゃきちゃき働いてる姉御って感じがするんですよね。
確かに本能寺の後とかセンシティブだったかもしれないけどそれが全ての性格じゃなかったと思う
忠利の猩々緋の羽織
関ヶ原の戦いの頃、忠興が忠利への手紙の中で何度か「猩々緋の羽織」について記しています。
もしかしたら忠利は関ヶ原の戦いの前後、猩々緋の羽織を着て過ごしてたかもしれませんね。
『細川家史料』より 慶長7年3月23日 ひろうどのはほり進候、か様のひろうとハ上方ニ無之間、其許ニハ中々候ましく候、なりも珎敷かへ候、可被秘蔵候事、付、しやう/\ひのはほり請取候事
息子のイメコンに力を入れる細川忠興
慶長5年くらいから7年位まで、忠興が忠利への手紙で脇差や武具を色々見繕っては送ってなやりとりが伺えるんだけど、パパなりの江戸にいるんだからナメられないように見た目しっかりせんとな!!っていう心の表れなのかなあ〜と。
息子のイメコンに力を入れる細川忠興
同じ日付の別の書状も「(忠利へ)三原の刀あげようと思ったけど長すぎて合わないかなと思ってあげなかった」「この長義の刀はメッチャ切れるからあげる〜信長もいいかなと思ったけどお前にはこれが似合うかなって」と書いてるので息子のイメコンに力入れまくりだな…って微笑ましくなる
忠興曰く忠利はちやうぎ(長義)の刀が似合うらしいです
そしてこの時の手紙の最後をお長もたらも与五郎も元気してるよ!で締めくくってるので萌えで心臓がちぎれる
忠利の和歌
忠利の和歌 寛永5年2月晦日 於東之御茶屋御発句御歌 春くれハ都の花を思ひ出てひとりハすまぬ我心かな
花のさかりの時に詠んだとしても花といえばやっぱり玉ちゃんの辞世の句は浮かんじゃうし「都」には父母や兄弟や親族・もうその場にいなくなってしまった
人々との記憶も詰まってるかもだし美しい花を見て過去を懐かしんでるぽいのが…
幽斎さんなら伊勢物語とか源氏物語とか古今和歌集から題材持って来てわしの考えた最高の伏線和歌!みたいにしそうだけど忠利ちゃんは良くも悪くも直接的…………泣いてしまう
忠利と秀林院
忠利小倉に秀林院て塔頭(かな?)建立してたんです…?知らんかった
忠興の陣法度
忠興が小田原征伐の時だっけ?進軍の時獣道を斧やら鍬やら借り
て道開いた経験からそれ以降戦時必需品になったみたいな逸話。あれって忠興の陣法度にも書かれてるんですね〜
「木を切り草を狩ること。方角と帰る時分を定めておくこと。」っていう。忠利の陣触ですが、忠興の陣での法度もだいたいこんな感じらしい へえへえ〜(へえボタン連打)
寛永年間の忠興の手紙
寛永年間の忠興のお手紙、政宗と長政がレギュラー枠みたくちょこちょこ出てくるんだけど政宗に関して「酒飲み過ぎ」から始まるの多すぎるのと「まあいつもの事」って忠利に報告してるのがこう生々しい会話って感じで好き
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