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大坂夏御陣大光君軍功之私記①

細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。

『茂木町史第5巻 通史編』より引用。
長いので、一部中略しつつ分けて投稿します。

大坂夏の陣において興元がどのあたりに備えていたか、あとは勝手に備えの位置を変えて周囲から反感勝ってる経緯とか。


大坂夏御陣大光君(細川興元法名)軍功之私記


 慶長二十年乙卯年関東大坂の御ハ睦破れて再び闘諍の巷となれり、大坂の武運既に尽く落城不日にあり、五月七日常駐より最後の合戦を挑んで天王寺口に出張し、真田左衛門幸村、福島伊予、同兵部其外七年の番頭左手先は毛利豊前、秀頼公近習の輩、是に続き岡山表には大野主馬首魁として従軍の輩なり、北は玉造の前より南は天王寺茶臼山と一里余りの所を一文字に備を立たり、将軍家徳川秀忠の御勢敵に向って是も一里余の所を箕手に勢を立、中央に将軍家の御馬を立てられ、それより南に大御所御旗を立られ当り、北の手先は加賀筑前守、其南に藤堂和泉守、井伊掃部頭、細川越中守以下諸軍備たり、南の手先は越前宰相忠直、本多出雲頭組共に備へ、それより諸軍北より続いて備たり


 両御所様御側に伺候する一面々本多佐渡守、同上野介、酒井雅楽頭、土井大炊頭、安藤対馬守、井上主計頭、永井近大夫、御小姓組の面々従軍頭酒井雅楽頭手の軍勢は息阿波守大将にて、細川玄蕃興元に軍の成敗を任す。土井大炊頭手の軍勢は佐久間備前守・大膳父子に預けり、本多上野介の軍勢は息出羽守を対象として立花飛騨守宗茂に軍の成敗を任せて各自身は御前に伺向すゝ是皆台命に依てなり


 立花飛騨守宗茂・丹波五郎左衛門長秀は庚子関が原の乱に所領を没収されわずかに一万石の扶助にて御旗本に在、大光君も一万石の所領也、此の三人当世の英雄と沙汰せり、御旗本の一先土井大炊頭、次に酒井雅楽頭と命令せらる。此時、大光君、敵・味方の勢を見切、味方大衆といへども先手旗本の席段なく軍勢既に敵を呑む、不時の勝負に怪我あらんそとをぞ察して相備、出羽守に向て曰、今日の備立軍法不宜覚候、必敵に一立も二立も追立てらるべし、此方は下位置く掛となられ、是の軍を押し直さんと、出羽守曰く、将の言計り叶へりと


 於是雅楽頭の人数を繰り出して土井の備の右に聞て備を布く、佐久間備前父子不快に思い如何なる旨意あって先手に備たりやと咎むるといへども、大光君不聞如にして自若たり、佐久間大に怒って直に軍使を馳て大炊頭に訴ふ、大炊頭是を雅楽頭に達す、雅楽頭大に驚き玄蕃、元来不敵の豪傑自はず打臥たり、下部漸く介抱して引揚の節、両御所様、御馬を懸故、左源太附添たる者の内へ入れ隠さんとするを上覧あって、何者ぞと御尋ね有れば、細川玄蕃頭家来土方左源太と申者にして唯今、敵を打散し深疵を蒙り引揚げ参ると申上る、則頚を上覧に入れ左源太拝礼仕るに御直に御褒美あり、上意これあり、誠に冥加の仕合せ



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是ことり(ここ ことり)
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