50歳のリアル⑦ 4スタンス理論による自己肯定感UPについて
運動が苦手な小学生男子にとって、体育の授業ほど苦痛な時間はない。
好きな女の子の見ている前で、駆けっこでビリになったり、ドッジボールでは的にされるなどの醜態を晒すことになるからだ。
どれだけ絵が上手くても、どれだけ歌が上手くても、いくら勉強ができていたとしても、徒競走でビリになった瞬間、全ての栄光は音もなく崩れ去る。
やっぱり、運動神経が良い男子がモテるのだ。
その対岸にいる運動神経が鈍い男子は、どんなにイケメンであってもお勉強ができても、本来の実力よりも過小評価を受けることになる。
それだけ、子供時代の体育は重要だということだ。
重要だと思うあまり、運動神経が鈍い子供は、どうしても自己肯定感が低くなってしまう。
授業中に手をあげられなかったり、給食のおかわりにも遠慮がちになったりする。
ボクはそんな子供時代を過ごした。
自分は運動神経が鈍いのだ、と思い込んでずっと長い間生きてきた。
ボクみたいな子供を不憫に思ってか、のちの世代では徒競走に順位をつけないといった、ゆとり教育が採用されたようだが、もう少し早く気づいて欲しかったものである。
体育は競争ではなく、みんなが参加して楽しむものなのだ!
とは思うが反面、社会に出た途端に、否応なく競争社会に放り込まれて揉みくちゃにされることを思えば、子供時代に勝ち負けの現実を思い知ることは、悪いことばかりでもないだろうとは思っている。
負け続けたことをバネにして、今の自分があるのは確かだ。
人生の早い段階から、負けることを思い知ることは、今になって思うと、むしろ良かったのかもしれない。
この歳になって思うことは、若い頃に順風満帆だった人間のうちの半数以上は失速停滞、もしくは退化しているのではないかということだ。
勝ち続けると、どこかのタイミングで、人間は奢る。
そして、奢ったあげく、意欲を失う。
簡単に手に入ると思ったものは、もはや追いかけなくなるのが人間だ。
あれ?この人、昔はもっとガツガツしてたよな?といった具合に。
人生という長いレースの上では、折り返しを過ぎてから歩き出す人や棄権する人がいる。
決して、みんなが同じように駆け抜けるわけじゃない。
だから、今負けていたって、挽回するチャンスは、これからいくらでもあるのだ‼️
これは若い世代の方々に向けての、50年生きてきたボクからのメッセージだ。
そしてもう一つメッセージがある。
子供の頃に徒競走で負け続けた君に。
子供の頃から、運動神経が鈍いと思い込んでいるのだとしたら、それは…
思い込まされていただけ、なのかもしれない。
4スタンス理論という考え方がある。
簡単に言えば、体の使い方は4つのタイプに分かれる。
重心は前後左右の4タイプあって、それぞれ体の使い方が違うというもの。
個人差があって重心のタイプによって体の使い方は異なるのに、日本の体育教育では画一的な教育がなされてきたというものだ。
と、いうことは、仮に後重心の人が、前重心の教育を施され、十分に力が発揮されなかったとしたら…
彼は運動神経が鈍いのだと、思い込まされることになりはしないだろうか?
子供時代に思い込まされるという影響力は、ボクらが想像する以上に大きいことは、例えばスポーツ選手は4〜8月生まれが多いという統計からもわかる。
子供の頃の数ヶ月は、身体の成長にとっては重要で、身体的優位性は、精神的優位性にもつながることを裏付けているように思う。
何度も言うが、ボクは子供時代、運動が苦手だった。
徒競走ではいつもビリだった。
スタートラインに立つといつもドキドキして胸が苦しくなった。
一生懸命に走りはするが、思うように前には進まなかった。
いつも負けた。
なぜ自分がこれほど走れないのか、自分でも全然わからなかった。
卑屈にもなった。
だけど大人になって、4スタンス理論という考え方があることを知って、すごく救われた気がした。
あの子供の頃はなんだったのだろう。
自分はもしかしたら、運動が苦手じゃなかったのかもしれない。
そう思い込んで生きてきただけなのかもしれない。
今、チャレンジしたら上手くできるかもしれない。
過去を克服すれば自己肯定感が上がるかもしれない。
全ては、かもしれないといった希望的観測だけれど、
大切なことは、正しいか正しくないかというより、
信じるか信じないか、ということなのだ。
今では思う。
自分はあのとき、本当は運動が苦手じゃなかったのだと。
そう自分に言い聞かせて、今日もジムのマシンで走っている。
人生のレースはまだまだこれからだ。
勝ち負けは、もはやどうだっていい。
今となっては我が道の上を走ってゆくのみだ。
これがボクの、50歳のリアル。