◆異界送り
過去にこの世を去ったすべての命、彼らの魂や意識が次に向かう場所があるのなら、そこはどんな景色なんだろう。
死後の世界なんて存在しない・・・そうかもしれないけれども、存在の有無を証明できる人はいつの時代もこの世には存在しない。仮に死後の世界があるとしても、この世を去った者にしかその存在を知る術はないだろう。
国によって、宗教によって、死者を弔う方法は様々だけれども、この世界に「祈り」という概念が根付いたことを考えると、何年何十年経過しようとなくならないのには何かしら理由があるのかもしれないとも思えてくる。
この世に生を受けたことは幸福で喜ぶべきことで、命が尽きることは不幸で悲しむべきこと、誰もがそう認識しているのは「今を生きているから」であって、あらゆる生命体の中でそのような概念を持っているのは知能を持つ人間だけだ。
では、これを真逆にひっくり返すとどういう表現になるかと言うと、この世に生を受けたことは不幸で悲しむべきことで、命が尽きることは幸福で喜ぶべきこと、となる。これに納得する人はどれくらい存在するのだろう。
生きていれば嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、苦しいことなどがあるけれども、頻度も度合いも人によって様々で、一括りにしては語れないものだろうと思う。
では、生きていて嬉しいこと、楽しいこと、感動することがほとんどないという人たちはどうか。この世に生を受けたことが幸福で喜ぶべきことだと思えるだろうか。
古い歴史には迫害を受けたり拷問を受けたり強制労働をさせられたりした人たちが大勢いて、そういう家庭の子として生まれれば、生涯そのような生き地獄が続く。到底、人間として生まれたことを幸せだと思えないだろうし、喜ぶこともできないだろう。
もし、死後の世界が、生きた生涯とは真逆のものとなっているのならどうか。酷い人生を生きた人たちには素晴らしい死後を、幸せな人生を生きた人達には過酷な死後を。線引きは複雑すぎてそんな世界はあり得ないと思える。
一番しっくりくるのは、善行と悪行による線引きだろう。人のために、動物のために、自然環境のために、自分以外の何かのために人生を捧げた人たちは報われるほうがいいし、私欲のために悪行を尽くした者たちは相応の罰を受け続ける、そういう死後なら誰もが納得するかもしれない。
死後の世界が「意識のみが存在する世界」なら転生もあるかもしれない。前の人生の記憶はリセットされ、別人として、別の生命として生まれ変わる。そういう発想で描かれたアニメやお笑いネタなどは多く存在するけれども、人が想像することは起こり得る現実である、とも言われるため、強ち全くのデタラメということでもないかもしれない。
意識とは不思議なものだ。