◆言葉の意味について真剣に再考する時間 #1
※エクセルのファイル形式ソフトが有償化したことにより、イメージクリエイションラボはエクセルアートを卒業し、新たなソフトを採用することといたしました。今回の投稿より画像編集を再開致します。「みんなのフォトギャラリー」への出品も再開致しますので、是非、新たなデザインのヘッダー画像を皆様のnoteにご利用くださいませ☆
まずは、ソフト慣れしていく意味も踏まえ、シンプルなデザインから追加して参ります(・∀・)
◆「正しい」と「間違い」の意味を分解再考
【1】人が導き出す解は必ずしも一つとは限らない
私が“分解”しようとしているのは「言葉の意味」である。最初から“ちょっと何言ってるかわかんない”と感じてしまった人たちのためにわかりやすい説明をする。
問題:素数である値「10」を分解し、考えられる限りの計算式を答えなさい(但し、10を超える値の使用、計算過程で10を超えることを禁止する)、という問題を解くとしたら、皆さんはどのような答えを解答欄に書き込むのだろうか。一般的にわかりやすい回答を並べると下記のようなものになる。
1×10、10×1、2×5、5×2,1+9、2+8、3+7、4+6、5+5、6+4、7+3、8+2、9+1
・・・とまぁこんな感じの回答になる。でも、これ以上のパターンの計算式を答えようとする人たちはこうも答えるはず。
2²×2+2、3²+1、(4-2)(1+2)+4
・・・などとなる。つまり、この問いの意図としては“答えが10になる計算式を可能な限りすべて答えなさい”だから、わずか「10」という素数でもとんでもない数の計算式が出てくることになる。“√”(ルート)なんて使い出す人たちもいるかもしれない。
昔の教育課程では、元々の計算式がテスト用紙に羅列されていてその問題を解く、というのが当たり前だったよね。
4+6= 、2×5= 、、、といった具合に。もちろん答えは両方とも10になるんだけれども、「問題を解く」ことを前提に考えてみると、こういう計算問題は、問題とは言えないほどのものでしかなかったんだなと思ってしまうんだよね。4と6を足せば10だし、2に5をかければ10になるのは“当たり前だよね”というレベル。
その先にある「10になる計算式のパターンはいくつあるのか」というところまでをテーマに学習していれば、人によって答えられる数も違ったはずで、そこには“想像を超える発見”があったに違いない。
小3当時に算数の授業で「掛け算九九を暗記させられたこと」で、私たちは、当たり前のことを刷り込まれたに過ぎなかったのだとわかる。当たり前のことを前提にした学習方法は、つまるところ学習ですらなかったのだ。その上で宿題を要求されたり、テストと題して問題を解かされたあの時間は、何だったのかと問われても、必要なことだったとは言えないのではなかろうか。如何に程度の低い教育課程だったかを思うと残念でしかない。
当然、算数や数学に限った話ではなく、国語や現代文に関しても、長文問題の答えが「文章の中に書いてある」という前提でそれを「読み解く?」といった解き方が一体何の役に立つのかについても未だに意味が分からない。例えば、一冊の本を読んでそこから知り得る情報、学び得ること、感じ取ることについては一括りにすることはできないはずで、これを無視した教育やテストも「考えることを放棄させるもの」でしかなかったんだよね。古文か漢文もわざわざ古い表現物の中身をわかるようになったからといって生きていく上ではほとんど役に立たない。
どんな科目であれ「暗記力の優れた者が良い点数を取れる」というフィールドで何年も無駄な時間を過ごすことを強いられたというのが現実に繰り返されてきた。
言い方を悪くすると、「考える必要のないことを敢えて学習と位置付けて授業を受けさせられていた」ということであり、「この答えがわかる人!」と担任に言われて「はい!はい!はい!はい!」と生徒たちが手を挙げるお決まりの光景は、暗記学習至上主義の悪習であったと言わざるを得ない。当たり前のことを答えさせられていたこの現実には反吐が出る。
それでいて、学習意欲がないことを宿題を提出しなかったり授業中に居眠りをしたりする生徒を怠惰だとしか評価しない学校も親も私は心底嫌いだった。そんな環境で自分の未来が見えないまま過ごした私は、果たして人間として歪んでいたのだろうか。間違っていたのだろうか。私は断じてそうは思いたくない。間違っていたのは、何十年も暗記学習を強いてきた上に一向に方向転換をしようとしなかった国の教育体制にあったのだということは、現代では周知の事実となっている。
文科省(旧文部省)以下各都道府県の教育委員会を裁判にかけて過ちを認めさせ、損害賠償請求をすることが可能なのであれば、一体何世代に亘る何千万人の人たちが原告の対象になるのか知りたいものである。結局は、この数十年で既得権益を貪った教育関係者たちは何のお咎めもないままやり過ごすのだろう。日本は豊かな国だったのではなく、国民はずっと深い闇の中で幻想に支配されていた国だったのだ。
バカだ無能だという扱いを受けている人たちがお金配りオジサンと呼ばれている前澤勇作氏の策にハマり、カネを配って1000万人のバカのデータベースを一気に集めたという話をホリエモンこと堀江貴文氏が話している動画を最近見た。実際のところはわからないが、そのターゲットにされている人たちはみんな知るべきことを知らず、考えるべきことを考える機会を教育現場で奪われて育った人たちの一部。貧富の格差や教育格差は、国が意図して生み出したものだと言われても仕方のない現実が目の前に広がっている。
就職活動時の面接でよく聞くのは、質問の回答内容が「10分でわかる面接対策まとめ」みたいな面接対策本に書かれている中身そのまんまの場合があるという人事担当者のインタビュー。それはそうなるよね。自分の頭で考えて受け答えできるような教育を受けてきてないんだから。
最近の人たちは、RPG(ロールプレイングゲーム)アプリで遊ぶでも、キャラクターの育成の仕方、武器の装備、クエストのクリアの仕方、そういうものを事前に攻略サイトで調べてからやるというのが常態化しているようで、「そんなことして何の意味があるのか」と思いきや課金までしているプレイヤーもいるというじゃないか。これが現実。自分で考えたり試したり工夫したりってことを面倒くさがって放棄しがちな人たちが思いのほか多い。
昔、私の兄もファイナルファンタジー(FF)シリーズをやっていて攻略本を見ながらやっていた。で、「詳しくなった」「強くなった」ということに満足している様子だったけれども、私には理解ができなかった。RPGは得意なほうでもなければ大して好きでもなかったけれども、初めてFF6をやってみた時、「攻略本などなくても自分でできる」ということに気付いた。
そう、スーパーファミコンやプレステ初期当時、ゲーム業界はすでに警鐘を鳴らしていたのかもしれない。西暦にして1990年代。もちろん、ゲーム会社としては、会社の収益を上げるための一つのコンテンツとして「攻略本」や「攻略サイト」を提供しているということはわかるし、ユーザー側にとってはそういうコンテンツを利用するか否かの選択肢となることもわかる。攻略法を利用するもしないも消費者側の自由ではあるんだけれども・・・という話。
【2】起きた事象のプロセスを解析する力
一言に言えば“逆算思考力”と言い換えられる。どうしてそうなったのか。どうして起きたことなのか。そういうことを考える力はどんなに暗記力が高くて多くの物事を知っていたとしてもできることではない。
逆算して考えられるということは、元を正せば「これからやろうとしていることはどんな結果に繋がるかということを想像する力」であるとも言い換えられる。
学校教育で一番重視すべきところが欠如しているとすればそれだったのではないか。世間に目を向けてみれば、小中の教師がわいせつ容疑や盗撮容疑などの性加害事件を起こしてしまっているのは、偏に“想像力の欠如”に起因しているからではないのか。
少しだけ私の過去について触れる。小さい頃から勉強が嫌いだった私は、中学2年の夏頃から塾に通うことにして、地元の進学校への入学することを目指していた。その目的は、それ以外の高校は「柄の悪い生徒が多いから」ということを知っていて、自分の高校3年間はそういう環境を避けたいと思っていたから。ただそれだけのために塾へ通い、進学校へ入学し、3年間ほとんど勉強せず、帰宅したら寝るという毎日を過ごした。
まったく勉強をしてこなかった人間が一年ほど塾に通った程度で入学できた進学校。環境がそうさせただけであって、私は身を委ねたに過ぎない。当時通っていた塾が優秀だっただけのことだろう。それも、高校受験専門の講師というだけあって、どの科目も効率よくテストの点数を上げることに特化した授業。確かに、地元の中学校の授業よりは何倍もインパクトのあるもので、暗記学習という点だけで言っても覚えやすかった。何のために学校に通っているのか、その具体的な答えは出ないまま中学卒業を迎えた。
そして、高校3年の夏休みのある日、机でボケーっと座って外を眺めていた私は、父親から「お前は自分の将来をどう考えてるんだ!」と怒鳴られながら殴られ蹴られた。一向に勉強をしない私に苛立ちと怒りが爆発したのだろうということはわかった。私は一切返答せずに黙っていると、父は部屋を出て行った。
もうその頃には、親子として普通に言葉を交わすことすらなくなっていた。どうしてそんなことになったのか。親は口に出しては言わないけれども、わからない部分もあっただろうけれども、わかっている部分もあったはず。それを互いに心開いて話す機会を持とうとしなかった結果だと今は思う。
そして、そのことは、私にとっては長年の後悔となっていった。理想を言えば、小さい頃からもっとのびのびとバカなことを言ってみたり、くだらない冗談を言ってみたり、ああしたいこういうことしてみたいと素直に言えるような子供でありたかった。ただね、うちの家庭環境は、父が抱えている仕事や家庭、その他諸々の問題などから来る重圧が大きかったせいもあって、いつも家の中はピリついていて、父はいつも食事を済ませて少しテレビを観るとすぐに自室に入り、仕事をしたり本を読んだりといったことをずっと続けていた。
こういうことを言っていると「片親家庭や両親から捨てられた施設育ちの子たちに比べればずっとマシな暮らしでしょ、何を甘えたこと言ってんの?」みたいなことを言われそうだけれども、両親や姉兄がいて経済的にも一般の家庭に比べれば良いほうで、確かにいろいろ恵まれてはいたんだよ。食べる物や着るものに困ったこともないし。ただね、幼少期の私にとっては、母の様子も、姉や兄の様子も、父が家にいるといないとでは明らかに違うことはわかっていて、それがもうね、ずっと嫌だった。すべてが。
いろんな家庭があって当然だと思うし、理想を言えばキリがないこともわかる。でも、普通に会話できない親子関係ってどうなの?ってのは今でも思う。今となっては姉兄とも疎遠になってるし。中途半端に恵まれた家庭に育つより、派手に貧乏のほうがまだ親子関係は良好に保たれていたんじゃないかなとかいう想像をすることも何度もあった。
というのも、父は口々に「オレは自分の服なんかほとんど買わない。お前たちには食う物も着る服も十分に買い与えてる。贅沢言うな!」みたいなことを言っていた。幼少期、親にアレ欲しいコレ買ってなんてごねた記憶はほとんどない。どうせそういうことを言われるだろうとわかっていたからね。晩御飯のサバの塩焼きを食べる時なんかも「将来自分で稼ぐようになったら一尾丸々食べればいい。お前たちは稼いでないんだから分けて食べろ。」というのが常。
言ってることはね、そうなんだろうよ。理解はしてた。でも、食事時にそういうことを言われてメシが美味しいかと言われればそんなことはなくて、ただ食べるだけ。食事中はテレビを消していたし。気持ちがドンヨリして表情が曇ると、「そんな仏頂面するなら食うな!」とブチ切れて父は自室に籠る、みたいなこともあって、子供だった私にはどうしようもないその空気がしんどかった。
父が子供を遠ざけている、そう感じていた。兄は悪さばかりしていつも怒られたり叩かれたりしていたし、1時間とか2時間とか正座させられて説教されることもよくあったし、それで済めばまだ良かったけど、小さい時に兄が父に腕を折られたこと、兄が高校の時に家出した時に父から殴る蹴るされたこと、その光景を間近で見た時に「もう普通に父とは会話できないな」と思ったんだよね。
「親の気持ちを何だと思ってるんだ!」と言われても、気持ちのやり取りができた試しがないのだから、そんなことを言われても私には理解できなかった。母は父のことを「お前たちのことを考えて毎晩お前たちが寝た後に話してるんだよ、心配してるんだよ。」と言って聞かせていたけれども、“そういうことじゃないんだよ”って言いたかった。これが言えたらどんなに良かったか。
一般的には恵まれた家庭環境だったのかもしれないけれども、だからこそ辛かった。小さい頃は特に。それが中学高校くらいになるともうほとんど麻痺していた。親は子供のことをわかったふうなことを言うけれども、子供から見る親がどう映っているかも少しは気にしてほしかったね。
自分の将来をどう考えているか・・・、これについては、正直考える気力すらなかった。高校卒業するまでの間、ずっと楽しくなかった。実体験としての家族の実像からは、将来結婚して子供を・・・なんて考えられなかった。
社会に出てからも、私の「なんちゃって人生」は続いた。常に、幼少期から高校卒業までに染み付いた“脱力感”が付き纏った。どんな仕事をしていても、誰と関わっていても、本気になれない自分。これが自分だということも自覚している。でも、人格・性格が形成される3歳~15歳、この12年間に関して言えば、人に心を開けないまま過ごしてしまったことで、社会に出てからもこの点で非常に苦労した。
“人を信頼できない人は、人から信頼されることはない”ということを身を以って経験してきた。人として大切な何かがぽっかりと欠けている感覚があるんだよね。自分が失敗したり人に迷惑をかけたりした時に、一言素直に謝れれば何の問題もないことでも、素直に心を開けないことがネックになり状況を悪化させたり立場を無くしたりもしてきた。
不思議なもので、冷静に自分を分析すると、昔から「お前は生意気だ」とか「素直じゃない」と何度も言われた理由がわかってくるんだよね。でも、謝罪ってさ、相手との関係性の修復だったり、今後の付き合いのことも踏まえてするものだと思うんだけど、こっちが悪いんだからただ謝るってのはちょっと違うと思っていて、“仮に謝らなかった場合はどうなるのか”とか考えていたりもする。当然、相手は謝罪もできない人間とは関わろうとはしないでしょう。
そういう結果に誘導することを考えるようになったんだよね。「(明らかに自分が悪いと自覚していても)別にあなたとこれからも仲良くする気はないから謝罪する気はない」と内心思うと、それ相応の態度や言動をして相手を遠ざけるなんてこともするようになった。なんか精神病んでそうに見えるよね。でも、至って思考は正常で、ただ自分が相手とどう接するかを判断してアクションしているだけなんだよね。
優しさとか思いやりとかって、誰にでも振りまくものでもないでしょう?普通は“波風立てないように平謝りでもして表向きくらいは大人な対応をすべき”みたいな考え方をしている人たちがほとんどなんだろうけど、そこから得るものは何もないって考えてるから、良好な関係を保ちたい相手にのみ限定するよね、そういう心のやり取りは。
正しいか間違いかで割り切れるものではないけれども、関わる人と関わりたくない人は常に主観で判断するほうがいいという価値観にアップデートすることにしたんだよ。もちろん、2~3度言葉を交わしてみてからだけど、半年、一年後の結果を想定して逆算してみて、「この人と関わり続けたらどういうことになるかな」と考えてみて、マイナスになるようなら関わらないという判断をするんだ。
以前、とある職場で年の近い男の人とプライベートで飲む機会を持ってみたんだけど、結果は想定内。繁華街のガールズバーとかパブとかに知り合いがいるとかで連れていかれてイヤな思いをしたことがあったんだよ。そっからは電話もLINEも切ってまったく連絡取らないようにしたって話。あくまでも判断材料を揃えたあとでのことだから、やっぱり逆算思考は大事だなという再確認はできたよね。いろんな人がいるから単純な割り切りができるものでもないけれども、自分の主観というか感性とか直観は常にアンテナ張ってるかな。
【3】自分が“正しいと思っていること”を誇示するナゼ
なんだろうね、個人が思う“正しい”って。たぶんだけど、一般的解釈とか他者の意見がどうであれ、自分が正しいと思っていることは正しいっていう論拠になるのかな?こういうことを言う人って別に他者からの共感や賛同を得たいわけではなくて、ただ単に誇示しているだけなんだよね。
相手がね、正しいと思っていることを話したあとに「オレなんか間違ってること言ってる?」って付け加えてくる場合、そう言われた側は相手が言っていることが正しいと思っていても間違っていると思っているとしても、とりあえず反対はしないものなんだよね。反対したら“俺が言っていることは正しいんだぞ、なぜならこうでこうでこうで・・・”って継続するから。あまり言わないほうがいいよね。「もうわかったから」って思われるだけだから。
こういう場合もある。“正論を言っているつもりで話していることが間違っている”とか“途中で論点がズレていること”とか、そのことに話している本人が気付いていない場合ね。
そもそもね、なぜ自分の意見が正しいと思っているかを切々と語るのって、遠回しに相手の意見を否定していることと同義なんだけど、自分の意見が正しいと思っている人は“相手がなぜ自分とは違う意見なのか”を気にしようともしないんだよね。なんでかって、自分が正しいと思っていることを否定されたくないから。否定されようものなら熱が入ってしまうだろうから、大抵そういう話を聴く側の人は「うんうん、そうだよね」って聞き流すんだよね。
時にはさ、正しいか間違いかではないテーマでも自分の意見が正しいことを誇示する人いるでしょう?そういう人の話は疲れてしまう。こういう見方もできるし、こういう捉え方もできるよね、で済む話を敢えて正しいか間違いかの議論にしてしまったり、言っていることが思いっきり一般論でその人の意思が少しも反映されていない意見だったり、ホントいろんな人がいるものだ。
あとね、こちらの意見を一通り聴いた時に「違うよ」ってとりあえず言ってから話し始める人ね。何が違うかを言ってくれるのかと思えばそうではない。時にはこっちと同じことを言ってることもある。
“正しいとは何か”を適切に理解するのだとすれば、正しいと思うことは自由なんだけれども、同時に、「間違っている可能性があること」も想定できるようでないといけないよね。それができれば、口調や表現にもそれが伝わるようなものになるはずだからね。
最近あったアカデミー賞の会場でのビンタ騒動。皆さんはウィル・スミスがしたことは正しいと思う?間違っていると思う?と問われた時にどんな意見を言うだろうか。
正しいか間違いかの前に、どうしてそんな行為に至ったのかがまず大事だよね。何やらウィル・スミスの奥さんのことを悪く言うようなことを司会者から言われたとか。じゃあ、その司会者が悪い・・・?だからウィル・スミスがビンタしたことは正しい・・・?言い方悪いけど、これはバカの解釈ね。
私の見解からは、時と場所を弁えない言動をした司会者もビンタしたウィル・スミスもどちらも悪いよね、傍から見れば。経緯がどうあれね。司会者は非言語障害のある方とかで、もしそのことをウィル・スミスが知っていればまた状況は違ったかもしれないけれども、この件に関しては正しいか間違いかではなく、条件が重なって起きたことだと言える。
自分の最愛の奥さんを変なふうに揶揄されて腹を立てない人は居ない、というのが一般的な解釈。でも、ウィル・スミスがビンタするに至ったのは、司会者がどんな人かを彼が知らなかったことが最大の要因で、タイミング悪く司会者の人が“人の痛み”に安易に触れてしまったことが二次的要因。そして、結果としてアカデミー賞という大衆の面前で司会者をビンタしてしまったその行為自体は容認されるべきではない。
暴力を容認する局面は、たとえそれがどんな状況であっても許されるべきではないからね。そして、アカデミー賞への10年間参加禁止については、このペナルティーの基準が曖昧であり、何を以って10年なのかというところには、一連の流れからして極めて重すぎる制裁だろうと思われる。これまでのウィル・スミスの功績を一切無視した社会的制裁は、彼の10年もの俳優人生を取り上げるに等しい。
それでも、大スターであるニコラスケイジは、B級映画にもたくさん出演している。そういう活躍の仕方もあるということを示す映画俳優が存在するというのは、きっとウィル・スミスの今後の俳優人生にとっても力強い支えになるに違いないと思う。
社会的な秩序や常識というフィルターだけで人の言動や行動を正しいか間違いかで二分する傾向は、間違いだという意見が圧倒的多数の場合、行き過ぎたペナルティーを課すことになりかねない。これは、裁判における判決とは雲泥の差で、かなり雑に決定されやすい。
ロシア軍のウクライナ侵攻について、プーチン大統領は今回の軍事演習について「仕方のない悲劇だ」と、あくまでも自国の正当性を主張するに至っている。プロパガンダで塗り固められた国内世論、そういうイメージが世界に広がっていて、世界各国から批判が殺到していても一切態度を変えない。
いろんな国から経済制裁による圧力をかけられているロシアの状況、現状皆さんはどう見ているだろうか。停戦交渉が難航する中でも戦争は続き、経済制裁は強化されつつある。このままだと行くところまで行ってしまうのではないかと思えてならない。
2月下旬頃から始まったウクライナ侵攻、現状はどうかというと、発端がどうであるかというよりは、ロシアと世界を分断するような流れになっていて、一度始めた経済制裁、度重なる追加経済制裁をするところまで行ってはいるものの、これを緩和するきっかけはどうやって生み出す?誰もこのままでいいなんて思ってないはずなのに、妙案は出てこない。今もウクライナのゼレンスキー大統領は「武器を・・・」と呼び掛けている。
すごくおかしなことを言っている人もいるなぁと思っているのは、この戦争が終わったあとのことをああすべきだこうすべきだっていう論調で意見している人ね。例えば、「戦争犯罪を犯した罪で国際裁判で裁かれるべきだ」という意見。おそらく、プーチン大統領はそんなことを心配してなどいないと思うんだよね。本人だって「目的を達成するまで終わらせる気はない」って言ってるんだから。裁判で裁かれるべきとかいう意見は完全に脳内お花畑かなと。
正しいか間違いかで割り切れるのなら戦争なんて誰も起こしはしないんだよね、元を正せば。
【4】“犠牲”の意味について再考する
いつの時代でも、戦争が起きれば必ず犠牲を払うことになり、失った命は元に戻ることはない。
では、人間社会における犠牲について考えてみた時に、どんな種類の犠牲があるだろうか。おおまかに言うと「事件」「事故」「自然災害」「差別」「ハラスメント」起因の犠牲があって、これらが起こる社会全体の国家、経済、政治、宗教、教育、文化などによって中身は無数にいろんなことが起きている。
業界批判をするつもりではなく、事実として、自動車産業は経済に多大なる貢献をした産業ではあるものの、コロナ禍の犠牲になった人たちの数とは比にならないくらいの犠牲を払い続けている。
元々、世界中の人たちが先祖代々受け継いできた社会は、いろんな場面で犠牲を払い続けて今に至っていて、今こうして生きている私たちはそれらの犠牲の上に成り立つ社会を生きている。何も戦争に限った話ではない。
だから、そもそも論、「生きていく上で何の犠牲も払いたくありません」というのは、本来誰もが望みたいであろう思いではあっても、必ず誰かが犠牲になりながら世界も社会も回っているんだよね。特に、自然災害なんて被害に遭った人たちは避けようがなかったはず。
正直言ってしまうと“一切の犠牲を無くすという理想”を掲げていくら議論を重ねたとしても、実現は絶対に不可能なんだよね。そりゃーね、運、不運もあるものだから、避けようのない犠牲については覚悟して生きていかないといけないのがこの世界の大前提だったりするんだよね。普通に生活できているとそんなこと微塵にも考えなくなってしまいがちだけれども、明日は我が身と言われるのは、まさにいつ自分に不幸が降りかかってきても不思議ではないからなんだよね。
“犠牲とはどんな意味か、あなたの認識で結構ですのでお答えください”という質問に対して、実際にどう回答すればいいか考えてみると、なかなか難しいよね。頭では理解しているつもりでも、言語化しようとすると一言には表現しにくいと思う。じゃあね、仮に私自身が認識している犠牲について述べてみるよ。
犠牲とは、大別して二種類に分けることができて、一つは「偶然の犠牲」で、もう一つは「人為的犠牲」だと私は思っていて、どちらも生涯を通して完全にエスケープ(回避)するのは不可能なものだということ。では、犠牲になりそうな局面にぶち当たったとして、黙って犠牲になるのかというとそうではなくて、ギリギリまで生きるための行動、身を守るための行動を強引にでも続けないといけないような状態。
それでも命を落とすことになる場合も当然あるんだけれども、多少血を流すことになったとしても、諦めて黙って犠牲になろうなどとしてはいけない。生きている間に、巨大隕石が地球を目がけて飛んでくるみたいなアルマゲドン級の災難が降りかかってきたら、地表がめくれ上がって地球全体に達するまでにおよそ1日。そうなったらもう無理だから、嘆いている間もなくすべての生命が死滅する。
中には、もらい事故的な感じで本当は遭遇するはずのない災難に巻き込まれて犠牲になってしまう人もいる。交通事故なんか特にそうだよね。結果論としては起こるべくして起きた交通事故だとしても、ほんの数十秒でも事故現場に行き着く時間が早いか遅いかすれば犠牲にならずに済んだかもしれないなんてことは現在進行形であちこちで起きているよね。
ちょうど交通事故の話に触れたから現代の日本国内の交通事情について述べるとだね、やっぱり交通死亡事故ワーストの地域は、どんなに自動車の安全性能が上がっても全国ワーストだってこと。これが意味するのは、大して必要でないならもう自動車を運転するのは辞めてしまったほうがいいって話。70~80歳の高齢者が運転する車がすべて危険だとは言わないけれども、高齢者であることに変わりはなくて、判断能力も運動神経も鈍くなっているはずだから、老人が事故を起こす可能性が高齢化社会では高まっているっていうのは事実で、否定したって仕方がないよね。
でも、仮に歩きや自転車であったとしても安心はできないんだよ。つい最近、私も歩行者用信号機が青になったから渡ろうと思って一歩踏み出した瞬間、赤信号無視で猛スピードで交差点の向こうからビュン!!と直進して通り過ぎたんだよね。もう少しでその車のサイドミラーに腕を折られるところだった。普通に生活圏内でそういうことが2~3度ある。だから、青になったからって安心して横断歩道を渡るのは辞めたんだよ。危機感なく渡っていたらもう何回犠牲になっているかわからない。
交通事故の被害に遭って亡くなられた方々は、本当なら生きていたかもしれない人たちで、加害者側も危険運転でない過失運転の場合であればそんなことになるなんて思ってもいなかったはずなんだよね。普段意識してなかっただけで、実は危険は普段の生活の中に、すぐそこに潜在しているんだって思ってないと、ここ最近の自動車交通事情は全然安心できないどころか、死亡事故が多発して県が警報を出してるほど。
あと、電車の人身事故ね。関西、愛知、岐阜、北海道、だったかな、この1か月以内で起きた人身事故。新学期がスタートする、新生活がスタートする時期はどうしても起こる。駅ホームや踏切で線路に飛び込んだ人たちは、一体何の犠牲になったんだろうかと思うと、実際には偶然の犠牲でも人為的犠牲でもないケースもどうやらありそうだと、その可能性が少なからずある。
新学期というだけで、新生活というだけで不安に駆られて、おそらく自分でも制御できない行動に出てしまうことがあるのかもしれない。SNSなんかでは通勤時間や通学時間で電車が止まってしまうことで、飛び込んだ当事者に対する誹謗中傷が殺到する傾向にあるけれども、それはなんかまた別の問題になっていて、何の犠牲になったかも定かではない失われた人命のことは一切関知しない状況も同時に起こっていたりする。
◆“神を崇める”偶像崇拝とは
【1】相反する2つの何か、その中心にあるのは“信仰心”!?
なんかこう、ハッキリと境界線があるわけではない二律背反の関係にある言葉ってあるじゃん?例えばそうだな、「賛成と反対」「正義と悪」「天と地」「理想と現実」「光と闇」みたいな感じの“互いに真逆の矛盾した関係性”にある言葉ね。
“互いに決して交わることのない性質”とも言い換えることができるね。で、今回のテーマでもある「正しいと間違い」も二律背反の関係にある。だってさ、世の中にはいろんな問題が山積みになっているけれども、どんなに議論を重ねたとしても、事、人の行いが「正しいが、同時に間違いでもある」とかいう結論に至ることは絶対にあり得ないよね。
いよいよ今回のテーマの核心に迫る。人がいくつかの選択肢の中から一つを選んで行動したとして、果たしてそれが正しいのか間違いなのかは、結果を見るまではわからない、というのが極論。選択する前も、選択してから行動を起こす時も、行動を起こしてから結果を見るまでも、過程においてはどんな経緯を辿ろうと結果を見るまでは誰にもわからない。
自分の選択が正しかったのか間違いだったのかがわからないから、結果を見るまでは「選択は正しかった」と「選択は間違っていた」との間で揺れるんだと思うんだよね。その「揺れている間」に、人は「自分の選択は正しいのだ」と“信じ続ける”んだと思う。
どうしてこんな話をしているかというとだね、人ってよく人生を「成功と失敗」で語ったり、「勝ち負け」で見たりするでしょう?でもさ、人生のどこかで成功したからといって生涯成功者でいられるわけではないし、一度失敗したからといって終わりってわけでもないよね。何度も失敗したとしても成功するまで諦めなければ成功する、という精神論もあるくらいだ。勝ち負けも同様で、勝つこともあれば負けることもある。
ただ、上述のように、相反する関係性であるわけだから、成功と失敗が同時に訪れることはないし、勝ち負けも同時には起こり得ない。どちらも結果を見るまではわからない。ところがね、二律背反の関係性にありながら、一つだけ結果が初めからわかっていることがあるんだよ。
「生と死」。人はこの世に生を受ければ、いつかは必ず死ぬということが確定している。では、生と死の中心で人はどうしているかというと、人それぞれで何かを信じたり、祈ったりして生きているんだよね。何かの宗教に入信している人はその宗教で崇めている神の存在を信じ祈りを捧げているだろうし、無宗教の人だって少なくとも何かしら信じるものがあって、人生の節目や岐路に立った時には祈ることもあるだろう。
別にね、私は宗教の起源などに詳しいわけではないし、うっすらとしか知らない。でも、どうして地球上に多くの宗教が根強く残り続けているのかを思い返してみると、人間社会に宗教思想が広まったのもなんとなく理解できるんだよね。
【2】国家特有の文化や伝統が継承され続けてきたように
数千数百年と世代交代を繰り返してきて現代に至ってもなお残り続けている文化や伝統のように、人が神の存在を信じ祈りを捧げることをも、大切な人たちの無事や世界平和を祈ることも辞めなかったのは、生まれた瞬間からいつかは必ず死を迎えることを知っているからにほかならない。
中には、何年、何十年と生きていても、希望がなく、光が見えず、何を信じていいかわからない人たちだって大勢いるに違いない。もっと言うと、自分のことすら信じられなくなっている人だっているだろう。いつかは死を迎えるとわかっていても信じるものがない、そういう人たちにとって、宗教というフィールドは多大な貢献をしているのかもしれない。
人類史を振り返れば、世界のあちこちで宗教紛争が起きていたり、宗教弾圧による虐殺も起きていたりする。そう、“信じ崇めている神が違う者”ということが争いの火種になっている。どの宗教の信者であろうと、そのこと自体に正しいも間違いもないだろうに、植民地支配が横行していた頃は宗教弾圧も同時に行われていて、ここ日本でも安土桃山時代に織田信長が本能寺で命を落とした後、豊臣秀吉が実権を握ると、キリスト教信者を弾圧し“踏み絵”を踏ませたという歴史がある。
中学高校時代、こういうことにはまるで理解がなかった私が、今こうして宗教について考えを巡らせていることは、当時の自分からは想像もできない状況。「宗教って何?神?そんなのいるわけないじゃん」という程度にしか考えていなかった。それよりは、まだ仏教への理解のほうがあったように思う。誰にでも先祖はいるわけで、先祖への感謝や祈りというのは何年何百年経過しようと人々がこれを辞める理由は一つもない。
つまるところ、人は、ほとんど本能に近いレベルで“神を崇め仏に祈る”生き物なのだと解釈しても決して間違いではないだろうと私は思っている。だから、この世に生まれてから死を迎えるまで、信じるものがある人はそれを信じ続けながら生きればいいし、信じるものがないのであれば神や仏に祈ればいい。
【3】正義と正義の争いを止める唯一の方法
毎日のようにロシア軍のウクライナ侵攻について報道されているこの二か月近く、もううんざりだと思っている人たちも少なくはないかもしれない。でも私は意識的に「それでも思考を巡らせなければならない」と考えている人間の一人。
どうして同じ人同士が殺し合いをするのだろうか、戦争は何が発端で起きたのか、どうすればこの戦争を止めることができるのか、こういうことを動画でニュースを見ながら一緒になって考えることは、少なくとも私にとっては必要なことだと思っている。
圧倒的にロシア軍やプーチン大統領への非難が世界中から殺到してはいるものの、ここ最近ではウクライナのゼレンスキー大統領への評価に大衆とは違った視点から見る意見も飛び交うようになってきている。
本当にロシア側だけが“悪の集団”でウクライナ側は“正義の集団”なのかというと、もうそういう見方をするフェーズは過ぎ去ろうとしている。というのも、連日のように発信活動をしているゼレンスキー大統領は、世界中に武器・食糧・飲み物の支援と義勇兵の参戦を要請している。
これまでに、NATO加盟国や日米英から支援を受けているウクライナの姿勢は「絶対にウクライナを死守する」というもので、対するロシアのプーチン大統領も「目的を達成するまでは軍事作戦を止めることはない」と明言している。
いつまで続くか不明な同侵攻を終始4分割して見るとして、第1フェーズに関して言えば、軍事侵攻を開始したロシア側の国際法違反は顕著であり、チョルノービリ原発へのミサイル攻撃を踏まえても、非はロシア側にあったろうと言える。侵攻開始から1か月が経過した頃からキーウ周辺のロシア軍の侵攻が変化を見せ、一時は撤退したとも言われていたものの、マリウポリでは大量虐殺が起きている。これを第2フェーズとすると、この時点でウクライナ側への世論の評価に変化が起き始めている。
ウクライナ支援として届けられた対戦車ミサイル「ジャベリン」は初心者でも扱い方さえ教われば使えると言われるもので、ロシア軍の戦車を次々と破壊した。ウクライナの兵士や義勇兵には銃が配られ、攻めてきたロシア軍を迎撃する構え。停戦協議が繰り返されるも一向に進展を見せない中でも続く戦闘。
いつまで続くかわからない・・・どうしてそう思うようになったのか。無論、ウクライナを守ろうとして戦っている人たちは、武器が尽きたら殺害されるか降伏するかしかない。だからこそゼレンスキー大統領は海外に向けて武器の支援を呼び掛けているわけだけれども、今後も十分に戦えるだけの武器弾薬が供給されたとして、当然戦闘は長期化する。
ロシア軍は一日当たり3兆円超の軍事費を投入しているとかで、度重なる経済制裁が課されるも一向に侵攻の勢いを弱めることはない。友好国であるベラルーシ、中国、一部には北朝鮮からの協力もあるとかないとかで、経済制裁の効力がイマイチ見られない状況が続いている。表向きに明らかになっていないだけで裏ルートで武器弾薬の供給や軍資金の調達に成功しているのかもしれない。
ウクライナ軍もロシア軍も、長期的に戦えるだけの兵士、軍資金、武器弾薬、食糧、飲み物、医療・・・といったものがある程度揃っている状態だとすれば、当然停戦の見込みは皆無となる。
この戦争が長期化する要因はただ一つ。対立する両国に支援や供給をする国がいるから、ということに尽きる。当然、ウクライナもロシアも負けるわけにはいかないとして戦っているわけで、両者の正義の下に続いている戦争であることは誰もがわかっているだろう。
もし、この戦争を止められる方法があるとするのであれば、唯一、これまで送り続けてきた諸外国からの支援物資や武器弾薬の供給を止めることだろう。もうこれ以上は戦えないという状況が数週間後に迫っているという状況を作れば、停戦協議においても大統領の発信活動においても現場の状況においても否応なしに態度を変えざるを得なくなる。
ロシア軍によるジェノサイドや戦争犯罪が問題視されているけれども、虐殺や強姦にまで至っている現状を鑑みるに、すでにフェーズ3に移行していると考えてもいいかもしれない。残る第4のフェーズは、最悪のケースを想定しておかなければならないかもしれない。
ここまで今回の戦争を助長させてしまっているのは、対立しているウクライナ軍でもロシア軍でもなく、はたまたゼレンスキー大統領でもプーチン大統領でもない。ロシアへの経済制裁とウクライナへの支援物資や武器供給をしている国々、ロシアから撤退した数々の企業も戦争助長に加担してしまっている、という見方が事実に則した見識だと私は見ている。
第4のフェーズは、おそらくNATO軍の軍事介入。これをゼレンスキー大統領が画策している可能性があるといった見方もあるようだけれども、強ち否定できないほどに現実味を帯びてくるかもしれない。
支援物資、武器弾薬の供給、難民受け入れ、経済制裁、貿易制限、これらは見聞きする印象ではロシアへの圧力として一見効果的なように思えるものの、プーチン大統領の停戦意思の有無に関わらず、逆に刺激してしまう要因となっている、という見方はもっと早い段階ですべきで、実際には戦争助長効果として作用している。
人道回廊を配備して住民の避難を最優先にして、一旦はウクライナをロシア側に支配させる段階を踏んでから停戦に持ち込み、そのあとで国際裁判で裁くほうが犠牲は少なくて済んだかもしれない。
【4】間違っていたのは誰なのか・・・
停戦協議は形ばかりになってしまって、本質的には何の進展もないまま犠牲だけが増え続けている。こういう一連の流れを見ていると“大衆は常に間違っている”という言葉が脳裏を過ぎる。
日本全国各地でも、ウクライナ支援募金を集めていたり、有名YouTuberが数千万円の寄付をしていたりして、話を聴いている限りでは「早く戦争が終わるように祈っています」とか「何か自分にできることはないかと思って寄付しました」といったような声が聴かれるも、そもそもそういう考え方が正しいとは言えず、「ウクライナに寄付をすることが部分的に戦争の助長に加担してしまっている」というのが私の論拠。
もちろん、ウクライナ侵攻が開始された当初なら支援も人々の助けになるだろうけれども、長期化が懸念されるようになってもなお支援をし続けるというのは、始めは正しいと思ってした行いが途中から「ん?戦争が長引きそうだ・・・なぜだ?」と疑問符が浮かぶようでは、支援の意味を本質的には理解せずに寄付をしているということになる。
最もわかりやすい例で言うと、競馬やパチンコなどのギャンブルにハマっている人は、手持ちのお金を次々とつぎ込んで、負けてはATMで貯金を崩してさらにつぎ込み、全部なくなったら消費者金融から借金してさらにつぎ込む。気付いた時には多重債務者になっている、という例え。賭けるカネが尽きると、どこからでも借金して賭ける。
お酒で例えると、酔うまで呑むと決め込んで大量の酒を呑み、なくなったらコンビニに酒を買いに行ってさらに吞む、といった感じ。人間は、目的のためなら手段を択ばない習性がある。これは誰にでもある。カネはあるだけ使い、酒はあるだけ呑み、なくなってもさらに欲する。
その点で言うと、現状のウクライナもロシアも大差ない。(戦争を喧嘩と比較対象にするのは不適切ではあるものの、あくまでも例えとして)喧嘩でも、どちらが先に手を出したかを論点にして「先に手を出した相手が悪い、だからこちらは殴り返した」という正当性を主張する人がいるんだけれども、確かに発端は先に手を出した相手が悪いだろう。でも、長引く喧嘩であれば、結果的にどちらも維持を張って喧嘩を収める努力を怠ったという点で両成敗になるんだよ。もう両国ともそうなりかけてる。
◆最後に・・・
対立する国家、対立する集団組織、対立する個人、これらの争いを止める方法がもう一つあるとするならば、互いに対立してはいるものの、「両者に共通する目的のために手を組む」というもの。ワンピースでも、ドラゴンボールでも、NARUTOでも、そういうシーンはあるよね。最初は敵同士だったのに、共通の目的のために共に協力し合うことになる。ドラゴンボールでいうと孫悟空とフリーザがドラゴンボール超でまさかの共闘にはさすがに驚いた。
停戦協議するなら、支援を減らしていって半強制的に停戦へ持っていくか、ウクライナとロシアが共通の目的のために協定を結ぶか、どちらかを推進していくほうがいい。でも、そんなこととはまるで関係のないところでプーチン大統領やゼレンスキー大統領の思惑が働いているとも考えられるため、一概に妙案とは言い難い。
総じて、戦争は開戦初期から長期化していくにつれ、どちらが正義でどちらが悪かという論点にズレが生じていき、何が正しくて何が間違いかを結論付けることができたとしても、失った人命は元には戻らない。
よく意味も理解せずに寄付をするのではなく、ただ終戦を祈る以外に方法はない。中途半端に支援をすれば戦争を長引かせるだけで、これを助長した国々も相応に国際法で審議される必要性はないとは言い切れない。本当に正しかったのかどうか、具体的に見つめなおさなければならない。
逆算して考えよう。戦争が半年、1年と長期化するのだとしたら、どうして長期化するのかということを逆算してプロセスを明確に想像するんだ。先立つものがなくなれば、どんな結果に至るにせよ、戦争は自然と終わりへ向かう。犠牲が増えるような状況は1日でも早く止めなければならない。
大衆は常に間違っている・・・。
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