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言葉の瞬発力


高校の同級生とご飯に行った。

一人は今でも定期的に遊んでいるA、もう一人は卒業式ぶりに会うB。
わたしとBと個々で関わりがあるAが音頭をとってくれる形で、在学中から数えても初めて三人で集まった。

大学卒業の時期に合わせて開かれた同窓会にも参加せず、ここ数年お決まりの面々とばかり会っているわたしにとって「久しぶり」と発することは新鮮で、やっぱり多少は緊張した。決して嫌な緊張感ではなかった。初対面の人と話したり、目上の人に接するときの緊張感とも違う。久しぶりに会うというだけで緊張したわけでもない。
例えるなら、授業で「ここテスト出るよ〜」と言われたときの緊張感。「聞き逃してはいけない!」とクラス全員が背筋を伸ばすことで、いい具合に集中できる。あの緊張感が、わたしは結構好きだった。

思い返してみると、わたしにとってAとBは在学中から刺激を与えてくれる存在だった。いつも挑戦していて、挑戦を恥じずに、周りにも堂々としている。在学中はAとBを繋げて考えてはいなかったけど、今日会ってみて気付いた。二人には似ているところがある、というか、わたしが二人を似たような目で見ている。

三十歳になったときの姿を語る二人の横で、自分がひどく幼稚な気がして恥ずかしかった。それは、ただAとBが明確な夢を持っているとか、夢や目標のために動いているとかそういう点ではなくて (もちろんそれもあるけど)、一人の人間としての核があって、その核が他者ではなくAとB自身の基準で作られたものである、という点だった。

AとBは、きっと誰に対してもAとBなんだと思った。ちょっぴりお高めの豚カツを食べながら、愚痴や弱音も聞いた。愚痴すらも弱音すらも吐き出せるところが、二人の強さだ。



ここ何ヶ月か、言葉の瞬発力を高めたいと思っている。そういう背景もあって手書きの日記を始めたのだが、現状は思うように上手くいっていない。

わたしは今日も「あの時ああ言えば良かった......」と反省するのを3回ぐらい繰り返して、けど思いついたときには遅くて、結局後悔を残したまま帰路についている。
「(AとB)二人の強さだ」というのも直接伝えられれば良かったのに、案の定noteを書きながらやれさっと言葉にしている始末だ。

『言葉の瞬発力』とは、単純な思いつきの遅さだけではない。わたしは何か言葉が思い浮かんだとき、それを飲み込んでしまう癖がある。
先日もバイト中に受けた電話で「(大雨が降っているので)お気をつけてお越しください」という言葉が浮かんだのに、結局言えずに電話を切ってしまった。丸亀製麺で冷たいぶっかけ温玉乗せを頼んだときに温玉が出てこなかったときも、「温玉いただけますか?」の一言が言えない。
おそらく、ほとんど常に脳内でひとりごとを発していることに加えて、その流れで脳内で一旦言語化してから口に出す癖があるからなのだと理解している。頭のなかで言語化された時点で、満足してしまうのだ。
これが結果的に話し下手に繋がってしまっているのだと、最近ようやく分かってきた。

ひとつめの『思いつき』に関しては何かしらのトレーニングが必要として、ふたつめの『飲み込まずに伝える』ことに関しては日常生活ですぐに実践できる。いきなり全て口に出すことは難しいだろうけど、少しずつでも頑張りたい。もしくは、後になってからでも怖気つかずに伝えたい。自分のなかだけで満足していては勿体ないから。


食後のお茶を飲みながら、Bから「心が痩せ細った」エピソードを聞いた。エピソードの内容も、心が痩せ細ったという表現を選ぶところも、Bらしくて素敵だと思った。



蛇足①


瞬発力から派生して、もうひとつ。

先日薬局に寄った際に、詳細は省くがものすごく嫌な嫌な光景に出くわした。この世の悪意を詰め込めるだけ詰め込んだような、どうしてこんな人が存在するのかと思うような光景だった。
耳を塞ぎたくなるような声に、わたしは無意識に息を詰めた。そうこうしているうちに順番が来て、薬を受け取って帰宅した。家に着いた瞬間に、どっと涙が溢れてきた。


感情にも瞬発力がある。
前述した言語化の瞬発力と、感情の瞬発力。二つは密接に繋がっていて、言語化の瞬発力を高めるには感情の瞬発力を高めることが必須なのだと思う。逆も然り。

蛇足②

本来自分には関係ないはずの感情が、なぜか雪崩れ込んでくることがある。大抵それは時間差で、まるで雨が止んだあとに起こる土砂崩れのように遅れてやってくる。崩れ出したら止まらない。どんどんどんどん押し寄せてきて、あっという間に収集がつかなくなっている。

この現象は『共感しすぎること』だと捉えていた。でも心のどこかで引っ掛かる部分があって。なかなか答えが出ない中、最近ようやく「もしかしたら」と思えることが見つかった。

おそらく、
わたしは他人と自分を同一視する傾向にある。

共感とは自分の世界を保ちながら相手と同じ側に立つこと。一方で、相手の世界に呑み込まれてしまうのが同一視。

今回書いたような出来事だけではなくて、色々な感情の動きがこれで説明できる、ような気がする......ので、また改めて調べたりして書き起こしたいと思います。シンパシーとエンパシーの違いとかも。


返せておらず申し訳ありません...





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