グッド・ナイト
商業ビルに設置された屋外用LEDビジョンには猫の部屋が映し出されている。そのビルの脇ではタクシーが止まっていて、テールランプが赤く灯り続ける。今夜は何処かで事故が起きたのだろうか。車内は静まり返っている。フロントミラー越しに肩幅の広い商社マンが腕組みをして座っている姿を、運転主は見てしまった。カーラジオが時事ニュースを提供してくれたおかげで会話のきっかけが生まれ、なんとなく漂っていた気まずさが少しだけ薄まった。タクシーの前を走る都バスの電光掲示板は誰かの最寄りのバス停が近づいていることを報せる。車窓から見える眠らない街は煌びやかで、夜闇とのコントラストを際立たせている。明日も平日を歩まなければならない会社員達は、作り出された明かりの中で、赤らんだ顔をして千鳥足だ。一軒目を終えて出てきたサラリーマン達が雑居ビルを見上げる。四階はカラオケボックスで、窓際に面した薄暗い部屋の天井にはミラーボールがついている。ミラーボールは色鮮やかな光を部屋中に散りばめながら回り続ける。「水星にでも旅に出ようか」と、彼が歌い、彼女は表拍で手を叩き続ける。二人の関係はまだ始まったばかりだ。二階にはゲームセンターがある。女子大生三人組がブースの中、SNSで流行っているポーズを、せーので合わせる。青春の一瞬を逃すことなく、カメラが彼女たちを撮り収める。様変わりした自分たちの姿に満足して、彼女らはiPhoneを取り出す。ひとりがQRコードを読み込み、今夜の思い出がそれぞれのカメラロールに記憶される。「やばい、もう終電くるじゃん」彼女たちは雑居ビルを飛び出て、駅に向かって走っていく。スニーカーと後ろ髪が同じように弾んでいる。クレーンゲームが与える楽しさに没頭しなければ寄るはずだった、コンビニのカウンター脇では、中華まんが温め続けられている。カウンターには外国人留学生が立っていて、ただ今、五浪中の浪人生がタバコを番号ではなく、名前で注文している。日本に来て二年が経ち、少しずつ単語でなら、返せるようになってきた。だが、それはあくまで相手が自分の言葉を待ってくれているのが前提だった。浪人生は穴を掘っては埋めを延々繰り返しているようなストレスに苛まれ続けていて、彼の怒鳴り声が閑散としたコンビニの中で反響している。やっとの事で外国人留学生が探し当てると浪人生はトレイに小銭を叩きつけた。浪人生がコンビニから出ようとする。だがなぜか自動ドアが開かない。浪人生が三回小さくジャンプした。それでも自動ドアは開かなかった。文句を言ってやろうと外国人留学生の方を振り返ろうとした瞬間、自動ドアが開いた。浪人生は何か言いたげだったが、立ち去った。「どうもありがとうございます」顔を上げた瞬間、あの人ペンギンみたいで可愛かったなと思い返し、ちょっと笑った。家から徒歩十分の帰り道で浪人生はピースライトを二本吸い終えた。もう道端に捨ててしまおうかと思ったが、あの時ポイ捨てしたせいで今年も合格できなかったんじゃないかと思うのは嫌で、携帯灰皿に吸い終えた二本目を入れる。サンダルで歩くにはあまりにも寒く、小走りになってしまう。等間隔に置かれた街灯が丸まった背中を照らす。机の下に置いてある遠赤外線のヒーターは、持ち主不在の間も働き続けている。寒さで真っ白になった指先を近づけるとじんわりと温かくなって、段々と痒くなってきて、浪人生が両足を擦った。溜息をつきながら再びテキストのページを捲る。一時間半集中して、ふと顔を上げるとレースカーテンの向こうは浅葱色に染まっていた。毎日劣等感まみれだが、この夜明け特有の青を眺める時間は、嫌いではなかった。ウォーターサーバーの蛇口を交互に使い白湯を作る。一口飲むと身体に微睡みが訪れた。「おやすみ」ぼんやりと部屋を照らす常夜灯にそう告げて、彼は布団に入った。自動運転にしている暖房の勢いが少しだけ強まった。
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