古事記の神様たち
出雲大社に行くことになったので、古事記と万葉集を読んでみた。出雲と聞いて思い浮かんだのが須佐之男命(スサノオノミコト)と柿本人麻呂だったからだ。
古事記は、神代から推古天皇の時代までを記した、現存する日本最古の歴史書である。序文と上・中・下の3巻で構成されており、特に神代の神話が描かれた上巻は、天照大御神や因幡の白うさぎなど聞いたことのある名や伝説がそこかしこに登場する。
日本の神様たちは多様で、良くも悪くも人間らしい。優しい神様もいるけれど、怒り、恨み、時に狡猾で、思い通りにいかず泣きわめくこともある。右の頬を打たれようものなら相手の両頬を打ち返すだろうし、部下を向かわせて命を奪いそうな神様もいる。
特に激しいのは、暴風の神様こと須佐之男命(スサノオノミコト)である。天照(アマテラス)大御神の弟であり、出雲大社に祀られている大国主神(オオクニヌシ)の祖先だが、腹を空かせた自分に料理をふるまってくれた他の神様を殺したり、子孫である大国主神(オオクニヌシ)をいじめたりしている。青森県のねぶた祭でも有名な「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)」は、そんな須佐之男命(スサノオノミコト)の持つ激しさが正義の行いとして表出した伝説のひとつである。
神代の神話において殺人(殺神?)が行われていることからも明らかなように、日本の神様たちは人と同じく死ぬことができるらしい。死後は黄泉の国へと渡っていく。
他の宗教や神話でも、殺人にまつわる伝説や、あの世とこの世を行き来する物語は存在する。旧約聖書『創世記』第4章のカインとアベル(人類最初の加害者と被害者)、北欧神話における原始の巨人ユミル(漫画『進撃の巨人』のモチーフにもなった)、バルドルとロキ(映画アベンジャーズ / マイティー・ソーの義弟だ)など、例をあげれば枚挙にいとまがない。
中でもギリシャ神話のひとつ、オルフェウスが亡き妻・木の精霊エウリュディケを愛するあまり冥界まで追いかけたが、現界への帰り道に後ろを振り返ってしまい、妻をよみがえらせることができなかった…という物語は、古事記の「アダムとイブ」こと夫・伊耶那岐命(イザナキノミコト)と妻・伊耶那美命(イザナミノミコト)の「黄泉の国」伝説とほぼ同じプロットである。
(悲しき愛の物語とされるギリシャ神話に対して、日本の神様たちは泥沼離婚に発展するという違いはあるが)
しかしながら他の宗教と古事記に描かれる神話では、神様たちの存在もしくは霊魂の扱い方がかなり違うように思う。
例えば旧約聖書では、はじめに神が「天と地とを創造」することころから世界が始まる。すべては神が創造された、神の意志のままに、という考え方だ。(神>自然)
一方で古事記は「天地(あめつち)初めて発(ひら)くる時に」神が生まれた。つまり神々の誕生よりも少し先に、天と地が自然発生的に生まれたことになっている。(神<自然)
北欧神話も、世界の創造の前にはすでに大きな裂け目が存在していた、という点ではやや古事記に近い視点がある。氷の国の霜から牡牛と原始の巨人ユミルが誕生し、やがて巨人ユミルが殺され、その血肉で天地が創造されていく。しかし北欧神話では、ラグナロクという終末が設定されている点で日本のそれとはやや異なる。
つまり日本の神様たちは、人間と同じようにエコシステムに組み込まれた存在だと認識されていたのではないだろうか、と思っている。
生まれ、死に、黄泉の国へと行った後、晴れてスピリチュアルな存在になる。その亡骸が次の循環を生むこと(須佐之男命 [スサノオノミコト] に殺害され、その肉体が穀物となった大気都比売神 [オオゲツヒメノカミ] の例)もあれば、高みの存在となった霊魂が現世を見守り、次の循環の手助けをするようなこともある。草花や人と同じように、神様たちの魂もまた巡り巡る世界の部品として機能しているところがある。
勉学の神として太宰府天満宮(福岡県)や北野天満宮(京都府)で祀られている菅原道真、明治以降の殉死者を祀る靖国神社(東京都)などの存在は、上記の「たましいエコシステム論」の延長にあるといえる。
古事記に見られるこのような日本の宗教的概念は、今の私たちのカルチャーにもそれなりに影響を及ぼしていると思う。
例えば日本の誇る長編漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズでは、代替わりしていく主人公は皆「ジョースターの血統」を引き継いでおり、血統そのものが重要な意味を持つ。孫、息子、娘など、主人公が代わっても「ジョースター家の血統」があるから、どの主人公も強い意志と正義の心を宿している。「この意志を継ぐ者がいる」と信じ、自分が死ぬような選択さえ恐れなかったキャラクターもいる。対するヴィランたちは、自らの生や信念だけに固執しているところがある。
この「意志を継ぐ者」的思考は、自分の存在が何らかのシステムの一環だと捉える視点がなければ生まれ難いものではないかと思う。
昨今の漫画作品では、他に『鬼滅の刃』、Dの意志を継ぐ『ONE PIECE』などにも見られる。
これまでの海外作品ではあまりこのような考え方を見かけなかった気がする。
例えば最近の上映作品で顕著だったのは、マルチバースを題材とした『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』。主人公マイルスは、自分と異なる誰かのバースに危機をもたらしたとしても、哀しき定めを受け入れない、という決断を下す。面白いだけでなく、現代の高い人権意識や個の尊重にもマッチした本当に素晴らしい作品だが、自らを自然の営みの一部と捉えるマクロな視点は全くない。(この映画作品はそれこそが魅力なのだが、それはまた別のお話)
とはいえ、例外はいくらでもある。
日本の漫画『呪術廻戦』は、上述のエコシステムからやや脱却した、より個人的な視点が点在しているように思う。誰かの意志を継いで何かをする、というプロットはストーリーの中に組み込まれてはいる。しかし例えば七海健人というキャラクターの「駄目だ灰原 / それは違う / 言ってはいけない / それは彼にとって / ”呪い”になる」(※1) という心中のセリフでは、自らの意志を、未来を担う者に伝えることは呪いだと明確に認識している。システムの歯車ではない、個の存在にフォーカスしている瞬間である。
また『ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー』は、アメリカで制作された映画でありながら、歴史上には名前が残らなかった、しかし確かに意志を継いだ者たちの存在にスポットを当てている。帝国軍の究極兵器「デス・スター」の設計図および弱点を入手するという任務を、無名の英雄たち、ともすれば日陰の存在ですらあった者たちが、自分の命を賭してでもつかみ、そして次の者に繋いでいく。
日本の神様たちは摩訶不思議で強大なパワーを持っているから、畏れ、敬い、祈る存在ではある。しかしシステムそのものの創造主ではないし、人間的な正しさやプラトン的な「善く生きること」を説くこともしない。
古事記の時代は、「個人」なんて概念は今よりずっと希薄だったに違いない。日本の神様たちが多様で非常に人間らしく表現されているのは、そもそもエコシステムの外側にいる存在というものが、想像しきれなかったからかもしれない。
ゆえに私たち人間と日本の神々の本質には、地続きな部分がある。
私はあまり信心深い人間ではないが、そう思うことで出雲大社の大国主神(オオクニヌシ)にも少し親しみを感じてくる。
とはいえ、律令国家を作るために編纂したであろう、プロパガンダとしての古事記やその作為性も見え隠れしているような気がしてならない。
長くなってしまったので、同時に読み進めた万葉集についてはまた今度書こうと思う。