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ハレルヤチャンスは使わない

実は、私はこれまで、過去に戻りたいと思ったことは一度もない。というよりむしろ、その時の自分ができる最善の選択肢を取ってきたはずなのだから、それが間違っていたり、怠惰だったとしても、やはりそうなってしまう、と思っている。
となれば2回同じことをするのは面倒な気がする。みんなで一緒に初めて見に来た映画を、実は2回目なのに1回目の顔をするもどかしさのようなものを、少なからず感じそうである。


ところで、果物が好きである。

先日、ご飯を食べ終わった後に、どうしても梨が食べたくなった。
私は、食への執着が強く、どうしても食べたいと思ったものは、必ず食べないと気が済まない。万が一、その一瞬を我慢できたとしても、脳内にその食べ物がこびりつき、耳元でささやき、次第にその声がでかくなり、リサイタルを開き、たくさんのファンが脳内に押しかけて思考が占拠され、結果的にそれを食べることになるのだ。
そのため、余計なものを食べないためにも、自分の欲望に忠実に行動するしかないのである。われわれは、生きているのではなく、むしろ身体に生かされているのだ。などという飛躍した仏教の考え方はさておき(仏教界隈に怒られそうである)、今すぐスーパーに駆け出したかったのだが、懸念点がひとつ、あった。

昨今の果物の価格高騰は甚だしく、宝石店におもむく気持ちでスーパーへ行かなければ、何も買うことができない、ということである。
しかし、小さいころから一貫して32年間くだものを愛してきた果物玄人の私は、「どんなに金額が高くても、ぜったいに梨を買うぞ~~!」という強い気持ちを、あらかじめ準備して、近所のスーパーへ行った。

スーパーにはちゃんと梨が売られていた。
2つで961円だった。それしか売られていなかった。

あまりにも高すぎる。悔し涙で視界がにじんだ。どんなに高くても梨を買う、というこちらの心が読まれていて、絶対に買わせないように工作員が先回りしたのだろうか。と、思うほどには庶民が絶対に買ってはいけない金額に設定されていた。こんなのほんまの宝石店ですやん、と、私のなかのエセ関西人が嘆いた。

家を出るとき、まるまるとした梨の皮を嬉々としてむいている自分を想像していたのが、遠い昔のようだった。



心はあの日の長野県にいた。

10年前の長野では当たり前に100円で梨が買えた。冷蔵庫で冷やしておいた梨を、ひとりで1つ、剥きながら食べて、TSUTAYAで5本1,000円で借りてきた新作の映画を見ながら、夜まで、ただダラダラと過ごした。
明日も9:00に学校に行くから、8:30に起きよう...


家に着いた。
着いてすぐにスーパーで購入したプラスチックパックを開けた。パイナップルと梨が入った348円のカットフルーツのパックだ(これでも30%オフだった。いや宝石店でおまんがな)。

1つまるまるは買えなかったけれど、これはまさしく、梨だ。食べたかった味である。
美味しい、、!!


いつか金持ちになって、果物を毎日好きなだけ食べれるようになるぞーー!
と、一瞬だけ考えたが、そんなには働きたくないので(まあ令和ですこと!)、できるだけ小さい口で梨を味わうことにした。これだって、じゅうぶん、しあわせじゃないですか、、!




ああ、過去に戻りたいと思うことはない。
何度戻っても、やはり梨は高くなっていただろう。

けれど、今はもう少し、心をあの日の長野に置いておくとしよう。


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