本読む彼ら
本を読みたい人生であった。
と言い切ってしまうには、あまりにも若すぎる。
とはわかっているのだが、私が本を読み始めたかったのは、幼少期や学生の頃なのである。
親兄弟が(私からすれば)かなり本を読む類いだったので、彼らが本を読んでいるときに暇つぶしに、仕方なく児童書などは読んだりはしたが、週末家族で本屋に行く時間が、苦痛で仕方なかった。
その場にじっとしていることが、とにかく苦手な子供だったのだ。
そもそも、なぜ早くから本を読みたかったかというと、本を読む彼らは、とても深みのあることを考えていそうだからである。本を読まない種族の思考の一歩先をゆき、俯瞰で物事を捉えているような気がするのだ。
私はというと、よしもとばなな(敬称略)のキッチンを読んだのも、さくらももこ(敬称略)のエッセイを読んだのも、社会人になってからのことだ。
そして、それからも本を読む頻度が高まることはさほどなく、いまだに読書入門編をのんびりと歩いている。
その間にも、本を読む彼らとの差は、どんどん開いているのだ。
しかも、私が書かれている情報のすべてを、取りこぼしなく感じ取れているはずがないのである。なんなら、書かれていることの1割程度しか理解できていないように思う。つまり、本を読む彼らと私が、同じ1冊を読んだとしても、得る教養の深さには、大きな差が出てしまうのだ。
もう、私が追いつくことなど、決してない深い領域に、彼らはいるのである。
加えて私は、毎日少しずつ教養を失っているのだ。人と話したり、僅かながら読む本のおかげで、かろうじて現状維持を続けているくらいのレベルで、まさに教養の自転車操業なのである。
いいなあ。本を読む人は。
相手の思考の本質を、完全に見抜いているような気がする。彼らが、飛んでいる鳥や、立ち並ぶビルを見たとき、それの何億倍以上の光景や思考が、頭をめぐるのだろう。その頃、私が見ているのはただの鳥と、ビルなのである。
好きな芸人やアーティストが、おすすめの本を紹介しているときなどは、何もかもに感服して泣きながら、チョコレートを死ぬほど食べて寝るのである。
ここ最近はマイルールにのっとり、毎日チョコレートを死ぬほど食べて寝ていたのだが、そろそろ本を読んでもいい頃だと思い始めた。
明日は本屋に行こう。
今日も少しだけ教養を失いました。
もっと恥の多い人生を生きたいです。