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二十九、三十

みなさんは、車は好きだろうか。
私は、もう10年ほど車に乗り続け、車検料や車税だって払っているというのに、さして車に興味がない。

もちろん自分の車への愛着はあるし、デザインや色を気に入ってもいる。(ダイハツのココアのブラウンカラーという、牛乳がない時のコーンフロスティの栄養バランスくらい、可愛さだけに偏った車である)

しかし、街中を走っている車が、一体どのメーカーのどの車種なのか、全く検討もつかない。
実家の車でさえナンバーで覚えているし、なんなら友達や後輩、恋人の車ですらナンバーで覚えている。
数字は確実である。ナンバーがわからない車に迎えにきてもらう時の緊張感は凄い。

そんなわけで普段からよく、車のナンバーを注視する癖がある。


本日、出先で道を譲った車に、若めの男性が乗っていた。ナンバーは9256。もしかして、92年5月6日生まれだろうか。おないやん〜!ちょり〜っす!(死語)

いや待てよ。
若めの男性、と判断した上で、同い年ではないか、と思ったという事はつまり、私は潜在的に自分のことを若いと思っているのだろうか。

もちろん自分が若いと思うのは自由であり、自分自身が若いと思えばもうそれは若いのだが、相対的な評価がどうしても気になってしまうのが、人間の性なのだ。社会的動物であるが故の煩悩である。

っていうか若いからって何なんですか?普段から自分の無知や教養のなさを、若さを盾にして日々をやり過ごしているからいけないんじゃないんですか?と自分を戒めたりもした。
しかしやはり、自分の事を若者と勘違いして場違いなテンションで若者のいる場に意気揚々と混じり、延々と自分語りをする、破れたジーパンに無秩序なチェーンを装備している初老男性などを目撃するたびに、いつの間にか自分もこうなっているのではないか、という恐怖を感じるものなのである。

しかし、彼らがそれで満足なら、それでいいではないか。だからこんな煩悩からは早く逃れたほうがいい、と自分に言い聞かせている間も、私の右親指は容赦なくSafariを開き、「日本 年齢 中央値」という、誰かが20億回くらい調べていそうなワードで検索をかけていた。

結論から言えば、私は若かった。

日本人口の年齢における中央値は48.4歳だ。つまり48歳以前と、49歳以降との人口がちょうど同じくらいになるということである。29歳(今年で30になる)の私からすれば、まだ20年程は半数以下の年齢として生きることになる。なんなら20年前の中央値が41歳だった事を考えると、このまま超高齢化が進めばもう少し相対的若者でいられるかもしれない。

しかし、これを他の国で見るとどうだろう。
マダガスカルでの中央値は19歳であり、10も歳上の私など、モラトリアムチェーンおじさんと同等である。

やはり、若さなどという環境や時代によって変化する不確定なものに感情を動かされるのは、くだらない事なのかもしれない。
けれど、私たちの感情はもともと不確定なものであり、環境と時代が違えば、まったく異なるだろう。

というかそもそも、チェーンおじさんの問題点は、彼が若くないことではなく、環境や時代をわきまえる力を完全に失っていることである。しかし、環境や時代に完全に合わせることが正しいというわけでもない。
そう考えると、この正解のない問題に対して、自分なりの正解を確たるものとし、信じて疑わないチェンおじはむしろ、かっこいい生き方をしているのではないのだろうか。



とかなんとか言っている間に、三十路を迎えていそうである。
まだ30も路を知らないので、、、と誕生日を引き伸ばせるものなら引き伸ばしたいものである。小学生の時あんなにも低かった早生まれの価値は、もはやAppleの株価のようである。


しかし、どのような時も、過去は消えず、未来は読めず、今だけがここにある。

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