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鞆の浦に行きました、街並み、義昭、そして今日も「港」

 ビール関係ない記事です。

 年末、帰省先から少し足を伸ばして、広島県の鞆の浦に家族旅行に行きました。今回はその旅行の感想。

 まず、鞆の浦について簡単に・・・中国地方出身者の自分としては全国的な知名度のある観光地だと思っていたのですが、会社の同僚に話したらそうでもなかったので。鞆の浦は、広島第二の都市・福山市の南部、瀬戸内海沿いにある港町です。立地的に、瀬戸内海の東西への潮流の分かれ目にあたるため、古代から「潮待ちの港」として栄えてきました。「潮待ち」の必要性が低下した江戸期から近代以降においては海運の世界における存在感を失っていきますが、後ほど写真を貼るように、その分、悪しき都市化の影響を受けず、往時の街並みを残す風情のある町です。

 と言いつつ、私も隣県・岡山の出身者でありながら初の訪問でした。大規模な温泉地でもない限り、近場に住んでいるときは、なかなか宿泊で訪れようという気持ちにもならないものです。今回は年末年始、関東の住処から岡山への帰省で、帰省だけでは物足りなかろうという点から、追加での移動に負荷のない備後地域への旅行を思い立った次第です。また、子供に瀬戸内海を見せたかったという気持ちもあります。

 新横浜から「のぞみ」で3時間20分ほどで、JRの福山駅に到着します。福山駅は、譜代大名の水野家、阿部家が住んだ福山城の三の丸に位置する、非常にお城が近い駅です。そのためかわかりませんが、駅舎は高くない代わりに、駅ビルがほぼワンフロアで広大な面積を有しており、トイレを探すのに苦労しました。福山駅から鞆の浦への移動は、送迎バスで20分ほど。途中、中四国ローカルのスーパーやドラッグストアが出てきて、懐かしい気持ちになります。

 鞆の浦の中心部に近づくと、海が見えてきます。到着した日はやや曇っていましたが、やさしく光る、瀬戸内らしい極めて穏やかな波が旅情を掻き立てます。仙酔島という島も間近に見え、少々観光ナイズされた渡し舟が行き来していました(平成いろは丸という船らしいが、後述の経緯から名前としてどうかとは思う)。

旅館の窓から。だいぶ夕方でポン・ジュノ作品みたいな色調になってしまった。実際には風光明媚。

 冒頭で述べた通り、鞆の浦の見どころはやはり、街並みでしょう。中近世に栄えた港らしく、江戸期以来の商家建築の並びが今日までその姿を留めています。江戸期の街路図がそのまま通用する町は、今日では稀だとか(以下、写真は到着翌日、晴天の中で街歩きをしたときの模様)。

恐らく江戸時代以来の商家建築
埠頭にて。奥のほうに見えるのが有名な常夜燈

 同時に、埠頭に並ぶ漁船や昭和中期然とした情緒を見せる商店はレトロ趣味も充足させます。今回は子供連れなので寄るのは断念しましたが、マップを見る限りではかなり多くの喫茶店がヒットし、喫茶店文化の街なのかな、とも思いました。

朝ドラのセットみたいな趣

 鞆の浦の名物を一つ挙げるとしたら、保命酒でしょう。これは、味醂に生薬を漬けて製造されたリキュールで、名前の似ている養命酒に近しい酒です。江戸期から・・・と一口に言っても、ごく初期の1659年が発祥ということで、長い歴史を持っているお酒。現在も複数社により製造されており、街を歩いていると杉玉を吊るした建物が散見されました。

保命酒のお店。反射してるおじさんがアタシ。

 歴史観光的な観点では、街としては坂本龍馬の逗留がプッシュされているようでした。1867年、龍馬率いる海援隊が航行する蒸気船「いろは丸」は瀬戸内海にて紀州藩の船舶「明光丸」と衝突事故を起こします。世にいう「いろは丸事件」です。持ち船を沈められた坂本龍馬が紀州藩との賠償交渉に臨んだのが、鞆の浦だったそう。結論は長崎まで持ち越されましたが、最終的には紀州藩が賠償責任を認めるに至りました。鞆の浦には、海援隊一行が身を寄せた商家・桝屋清右衛門宅や、交渉にあたった福禅寺対潮楼が現存しています。また、事件の関係資料を展示する「いろは丸」展示館も運営されていました。

桝屋清右衛門宅の屋根裏、坂本龍馬が潜んだ隠し部屋。想像より広いスペースではあったが、当時としては大男だったという龍馬は、難儀したかも。

 個人的には鞆の浦を巡る歴史的事象の第一は、足利義昭による「鞆幕府」だと思っていたので、街の「龍馬推し」は、少し意外でした。「鞆幕府」とは、学術的なコンセンサスが得られた用語ではないようですが、織田信長に京都を追放された足利義昭が、幕臣を引き連れて毛利家勢力下の当地に身を寄せたことによる、一種の亡命政権です。勿論、中央の政局を左右する実力は無かったものの、幕府の役職体制を引き継ぎ京都五山の住持を任命するなど、一定の権威は保持していたそうです。10年ほどの在地の後、1587年に義昭は京都に戻りますが、翌年には正式に将軍位を献上するため、鞆こそが室町幕府終焉の地といえるかもしれません。

 また、足利義昭が同地を選んだこと自体、足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を得た(つまり、後醍醐天皇方と戦う正当性を得た)場所であることに因んでいるそうで、そもそも室町幕府と縁のある土地といえるのでしょう。江戸時代末期の歴史家・頼山陽は「足利は鞆で興り、鞆で滅びた」と喩えたそうです。

 もちろん、世間的なネームバリューを考慮すると、坂本龍馬が前面に出てくるのは当然のことだと思います。しかしながら、歴史薫る鞆の浦の、いい意味で寂びれた、枯れた味わいのムードに合致するのは、足利義昭のほうだという気がしないでもありません。

 そもそも今日において、坂本龍馬と足利義昭、現代人の琴線に響くのはどちらの生き様でしょうか。『竜馬がゆく』が著された高度経済成長期と異なり、我々は斜陽の、何とか辻褄を合わせてやっていく社会を生きています。政変の成り行きで還俗した義昭のように、望むと望まざるとに関わらず人口減少と気候変動との時代に居合わせ、先の世代ほどの安定はなく恃むのは自分自身の才覚。老舗の看板に胡坐をかけば常勝だったのも今は昔、全盛期の信長よろしくグローバルな大きな力によって、我々はしばしば一敗地にまみれます。しかし、京を追い出された義昭が鞆で幕府を続けたように、仮に弾き出されたとしても、毎日をやっていかねばなりません。日々の仕事の中で山積するブルシットジョブは、私には、足利義昭が諸大名に送った、そして意味を為さなかった檄文の山のように思えてなりません。

 ここまで書くと冗談が過ぎますが、しかし、旅行者の嗜好も多様化するこの時代、勝てなかった側にしみじみ共感するようなツーリズムは、現実としてあり得るのではないかと思いました。

 宿は家族で泊まれるところを選びましたが、品があって清潔感も行き届いた、落ち着いた良い場所でした。さすがに家族で泊まったので宿名は伏せますが、行きたいと思ってくださった方は、検索すると何となくわかるかと。料理自慢の宿だけあって瀬戸内の味覚も味わえて、とても楽しいひと時を過ごしました

前菜。蒸しアワビとクワイの唐揚げが最高。
瀬戸内の海の幸。やっぱ鯛よ。
保命酒。とても甘い、意外と辛くもある。

 宿では、外国籍か、もしくは外国にルーツがあるであろう若い男性従業員が、とても親切にしてくれました。今日の(なしくずしにしろ)国際化された社会の在り方は、足利将軍は勿論、龍馬も予見していなかっただろうな、等と妄想。乳児連れの宿泊客というのは、配慮は要るし子供の分の追加収入も殆どない中での対応になりますが、その方も他の従業員の皆さんも、いやな顔ひとつせず対応してくれました。

 旅行前から、鞆の浦は趣のある港町だと知っており、したがって自分の趣味に合う場所だということは予期していました。しかし、龍馬プッシュから振り返る歴史や、親切な従業員さん達など、訪れてみて初めて感ずるところが旅の醍醐味だなと実感。往時の海運拠点の繁栄は無くとも、出会わなかったかもしれない人と人、感傷と感傷が交錯する場所として、鞆の浦は今も「港」なのか・・・という、強引に綺麗っぽくまとめたところにて、旅行記は締めたいと思います。

以上

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