他者理解と自分

自分は、共生についてよく考えます。共生という単語はよく異文化間で聞く言葉です。しかし、私はそれにずっと違和感を感じていました。文化というと何かたいそうなことのように感じますが、実際にそこで共に生きるのは人間です。こう考えると急に身近なものに感じるのではないでしょうか。どこかにいる文化ではなく、今目の前にいる人間から始めようということです。

今隣にいる人と自分はどれくらい似ているでしょうか。同じ日本人だとしても違うと感じるはずです。同じ国、地域で育っているはずなのに、こうも違うということは言われなくてもわかっていたはずです。それにもかかわらず、そのお隣さんを超えて、さらによくわからないどこにいるかもわからない文化と仲良くなろうというのは不思議なことです。 一人ひとりが違った環境で育っていく以上、違いは必ず生じます。自分が育った特定の文化の中でその文化的意味を自分のものとしていき、それが自分の空間を意味付けて行きます。つまり、周りにあるものから自分の周りを埋めていくため、自分の見方が埋めていったその素材に依存するということです。SFの世界ですが、全てが管理されている状況下で全ての子供が育つという社会になれば、その点で違いが生じないだろうなとたまに考えます。
文化には同じ文化間だったとしても共通として持っているものとそうではないものがありますが、それでも我々は生きているので、多文化はそもそも人間社会において至極当然のことなのではなのですZ ただただ、人が違うということです。ただ忘れてはいけないのは、全くもって違うというわけではないということだと思います。

同じところはあるのです。だから私は信じることができます。他者に自分が少しでも入っているからです。少しでも入っているから、他者を理解しようとすることもあれば、理解した気になることがあるのだと思うわけです。その一部、しかもどれくらいかわからないものなのにも関わらずです。

他者理解というと、他人がどう思うか考えなさいという言葉を思い出します。 学校の先生に何度も言われた記憶があります。言われるたびに、そんなのわかるわけないじゃないかと常に思っていました。これに関しては根本は今も同じです。根本はですよ。その周りを取り囲むものに対しては考えは変わっています。

話は少し変わりますが、皆さんは物語文の読解問題を解くときどう解きますか?僕は前に起きたことと後ろで起きた事の辻褄を合わせるために最も適切なものを選んでいます。至って一般的な時からだと思いますが、こう解いていると自覚した時にそうだとなりました。 何がそうだとなったかと言うと、現実も同じだと思ったからです。結局は、自分がそうだと相手を判断しているのです。だから周りをどう見ているかに自分が現れるんでしょうね。他者を通じて、他者の自分成分を見ているわけです。

他者が自分の思っていたのと違う行為をしたとき、人は裏切られた等といった言葉を使います。これに対して、よく、それはその人の見えていないところが見えただけだよという言葉が返されることがあります。

これに対して僕は、全くもって違うと思うわけです。なぜなら、その人成分なのかわからないからです。自分の成分がどこからどこまでかわからない以上、それが自分の成分であるという可能性を捨ててはならないと思うのです。

だから、少し前に戻りますが、私は信じることができます。他者理解とはこういうものではないかと思うわけです。信じることができるものであり、信じることしかできないものでもあるというものが他者だということです。そこに裏切りなどないのです。

成長してからは、これに加えて、信じたいから信じるということが他者に近づく方法だということを思い始めました。どこまでいってもどこまでが自分成分で相手成分なのかは分からないからこそ、どこまでも信じても信じられるのです。だから、そういう人に対して私たちは自身をさらけ出すのです。

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