教えることなどできない
私が今回読んだ本は『なぜ美術は教えることができないのか』です。
私は、現在、高校の英語教員をやっています。そこで強く感じることに、教えることはできないということです。私ができることは、どうすればわかるかを伝えるということだけです。だから、私は、英語が嫌いなのに教員を続けることが今のところ(といってもまだ半年ですが)できているのかなと思ったりもします。
では、本を読んでいて気になった箇所について書いていきたいと思います。
私はよく、極論として、英語なんてどうでもいいと言います。まあ、ジェイラボでしか言っていないですけどねw教師は教えるものだから、教えたがっている人が多いと感じます。そして、手あたり次第、教えようとしてしまっています。中には、英語も数学も世界史も教えちゃいましたといったようなことを言う人もいて驚きました。たしかにそうすれば、うまくいくでしょう。聞き手の大部分が同じ教材を学ぶことを望んでいて、教師は共通の関心ごとに授業の身の丈を合わせているからです。ただ、このようなことが常日頃成立するようなことはほとんどないのではないでしょうか。
私が今働いている教育困難高レベルの学校で生徒を見ているとこの部分に関して考えざる負えなくなります。テストに出るところだけを教えてください。であったり、必要なところだけを教えてください。といったことを何度言われたことでしょう。ただ、まだ教えてくださいとなっているだけましなのかもしれません。勉強したいという人は世間にどれほどいるでしょうか。ただでさえ、普通の高校生も遊びたいと思ったり、ゲームしたいと思っているのに、私が今働いているような学校の生徒であれば、みんながそうだと言ってもいいでしょう。
彼らの関心に合わせて、教師が授業の身の丈を合わせるというのは、極論を言うと、遊びたい、ゲームしたいに合わせに行くということです。だから、私は、そのようなことはしません。しかし、それは、そんなしょうもない奴らに合わせる必要はないからということを意味していません。
生徒の中には教えをまったくもって受け入れない子がいます。それは、教えを拒絶していて、その拒絶に自身が気づいていない場合もあれば、知能指数や精神年齢関連からそうなっている場合もあります。人はさまざまなのでそういうのもいるでしょうというものでしかないと思うわけです。
だから、私は、ただただ信じています。以前、「女との関係性とその先」でも書きましたが、私にとって信じるとは信じるということです。そんなようだと裏切られるではないかと思うかもしれません。確かに、このような学校だと平気でうそなどつかれます。しかし、そんなことはどうでもいいんです。裏切られたところで、それは相手が卑怯になるだけです。それによって自分が傷つくこと自体がおかしいのです。裏切られたからと言って裏切り返すことで自身までもが卑怯になる必要はないのです。
では、何を信じているのか。それは、生徒は意図的に学ぶということです。つまり、望めばいつでも学ぶことができるということです。これを信じ、私は、教えることを決心します。自分が教えるということを決めていて、それを自覚し、理由を持っています。テストになれば、生徒は意図的に勉強しますし(そうではない人は自動的に退学になるので)、その時に僕が教えたものが1つでも役に立てばそれでいいと思っています。また、テスト対策で行った勉強は大半を忘れますが、それでいいとも思っています。なぜなら、私が決めている教えに姿勢があるからです。つまり、形です。具体的な知識などを忘れ去ったとしてもなお残る姿勢が伝わりさえすればいいと思うからです。生きてさえいればいつかは伝わりますからね。
英語は教えられませんし、英語力など育成させることはできません。ただ、できるようになるスタート地点には立たせられるというだけのことです。