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解り合えることの難しさ/独り言のように。
普段心にあってずっとモヤモヤしていることを相手に書いて伝えた。
言葉が違うから何処まで正確に伝わっているかは解らない。
相手の言語は使わない。
向こうの母国語で、こういうセンシティブなことを書く気はしない。
「だって狡いじゃないか」っていつも思ってしまう。
私はこんなに苦労して使うのに、相手は息をするのと同じなのだから。
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たとえこの国に長く住んでいても、ドイツ語は私には何処までも異質だ。
何故だろう...と考えたことは多々あるけど、やっぱりしんどかった記憶と密接に結びついているからか。
嫌な思い出が良い思い出を上回るからか。
これからも少なくとも、子が独立するまでの十年間は暮らすつもりなら、良い思い出を増やしていく方が良いと分かっている。
でもドイツ語で彼には書いてやらない。
英語に、味方についてくれるように...と頼み、
書き綴る。
あまりにも率直にならないよう、ぶっきらぼうにならないよう言葉を選ぶ。
それはより正確に、私の心情を伝えるためのテクニックで、本音を言えば馬鹿野郎って書き殴りたい気持ちを堪えると、指先が震えているのに気がつく。
文字を打つ指が冷えている。
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おかしなことかもしれないが、
ドイツに住むようになって私の英語力は上がった。
「ドイツ語を話せるようになったけど、英語は全部忘れちゃった」
こちらで知りあった日本人がそう言うたびに震え上がった。
苦労してやっと獲得した英語を絶対に失いたくない。
そう思って必死に死守した。
彼とは最初から英語でその後も引き続き英語だったけどあるとき、
「ボクと英語で話してたらキミのドイツ語が全然上達しないからドイツ語で話そう!」
と言い出して、ドイツ語で言って当然分からないから同じ内容をまた英語で繰り返す。
なんと面倒臭いことが出来るのか....と相手の気の長さに感嘆したがやはり徐々に英語に戻っていった。
私のドイツ語力が上がっても、英語を失いたくなかったし、なんとなく夫婦なのに「先生と生徒」みたいな関係になりそうな危うさがあった。
狡いなぁ...と思う心は消えなかったし、日常の慌ただしさに呑まれて、速く喋れより意思疎通が出来る言語が優先された。
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子のドイツ語が上手になって、日本語も話せて、となって「家族の共通言語」が無いことに、なんとも言えない焦りを覚えるようになった。
ドイツ語、英語、日本語。
家族5人が同時に理解できない。
子は英語が理解できない、父は日本語が理解できない。
母の私だけが一応全部解る、でも子の前で彼らも含んだ会話でドイツ語でどうしても話すことに抵抗があった。
それはかなり大きな拒否感だった。
私は日本語でしか子どもとは話さない。
どんな時も、どんな所でも。
そのくらい徹底しないと日本語教育が崩れてしまう...とそれは強迫観念のようだった。
だって身近に沢山あったから。
夫や親類、子の友人がいる時にドイツ語で話して、結局「お母さんはドイツ語話せるし」となって、どんどん日本語が侵食されてしまう状況が。
日本語で話しかけてもドイツ語で返事が返ってくるとか、絶対に嫌だった。
夫との問題が出たとき、
家族で共通言語もなかったなぁ、もし和気あいあいとドイツ語で食卓を囲めていたら違ったのかな...と考えた。
悔やんだり思い直したりしたけど、その時の精一杯だった、と自分でそう認めたら無闇に自分を責めることもしなくなった。
そういった歴史がある彼との共通語の英語。
何処まで伝わったか、でもそれはもし相手が日本人で日本語で書いても、伝わらないことは有るよね、って思う。
私は正直に最低限の礼は失わずに書いたから。
緊張で冷たくなった指を震わせて、でも思うことを書いたからもういいか...と思っている。
自分に正直でいたい。
カッコつけたり見栄を張って、震えを隠してみたりしたくない。
自分が自分を恥なけれが、それでいい。
「よく書いたね、英語でだって大変だったよね」
と、自分で自分に言う。
きっと、
伝えるべき時というのもあるし、向き合うべき時もある。それがたぶん今日だったのかな。
そんなことを思った週終わりの午後だった。
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開花すれば陽気な黄色で辺り一面が埋まる