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江戸幕府には海軍も海兵隊も組織されていた!「幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで」を読んで(中公新書)

岡上記が日本で走り始めるよりも前、江戸幕府の時代からすでに日本には蒸気機関を備えた機帆船フリートが存在した!それも幕府の海軍としてだ!

日本史の成績ではクラスの誰にも負けないくらい赤点を取っていた私だって知ってる咸臨丸と勝海舟。実はペリー来航を機に幕府がパブリックコメントを募集したのがきっかけ。勝海舟のまとめた企画書が採用となり、幕府はオランダやアメリカに当時最新鋭の木造機帆船(軍艦)を発注する。
日本国内での建造も比較されたが、技術者の居住や資材調達などの面で海外発注が優先された。

中公新書( 2750)で見つけた「幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで」
には驚きの内容がいっぱいです!

ハウステンボスの前身、長崎オランダ村が復元した「観光丸」は蒸気機関も併せ持つ外輪船、あの有名な咸臨丸はスクリュー方式を採った同クラスの機帆船だった。幕府の軍艦は平時は商船として物資の輸送にあたり、海戦となれば乗組員が海兵隊員となって敵艦に乗り込んで格闘戦・・・、大砲も装備はするが命中制度も破壊力もそれなりのものだった。

海軍を組織するには船を揃えるだけでなく操船員を集める必要も、また育てる練習所も設立する必要があり築地市場のあったあたりにもその伝習所の痕跡が残っている。これらは日本で蒸気機関車が走り始めるよりずっと早く、明治維新の前から組織されていたものだ。旧幕府側と新政府軍の間では軍艦同士の海戦も行われていたというからすごい!旧幕府軍の榎本武揚が率いる艦隊が江戸を逃れて北上し、果ては開陽丸が江差沖にて座礁、沈没する憂き目にあっている。これも復元されて現在現地に展示公開中。

大政奉還に前後して徳川幕府がここまでフリートをそろえていた事に改めて驚かされる。

咸臨丸の太平洋横断もそんな幕府海軍が初めて経験する大型試験航海だったのだ。


国家防衛の観点から品川沖にいくつもの台場(砲台)が設置されたのもこの頃。明治維新を目前に幕府は欧米列強の脅威に対応策を迫られていたのです。

幕府も意外と頑張ってたんだなあ、と驚かされると共にここから帝国海軍に至るサクセスストーリーが始まるのでした。あの東郷平八郎も若き日に新政府軍側の乗組員の一人として北の艦隊に立ち向かう・・・・・・歴史は繋がってゆくのです。

蒸気機関車を走らせるためには石炭の調達や供給ルートの確保も必要で、蒸気船のオペレートが役に立っていたことは言うまでもありません。

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