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「不思議な“巨匠”」------「デイヴィッド・ホックニー展」。東京都現代美術館。 (~2023.11.5)

 時々、グループ展や、常設展で、その明るさと静かさのある作品は、あちこちで見ている。それは、「あ、ホックニーだ」などとそれほど知らないのに、つい心の中で小さく叫んでしまうほど、そのオリジナリティーの強さはある。

 ただ、主役のイメージはなくて、時代的にも、ポップアートが隆盛を極めている頃には、アンディ・ウォーホルがいて、その後にはバスキアが出てきて、再び絵画の時代になったようなイメージがあり、それほどアートの歴史に詳しくなければ、ホックニーは、その主流を作ったアーティストではないのでは。その程度のことしか分からない。

 だから、大規模な展覧会を行うといっても、どうして今ごろ、といったような気持ちにもなったのだけど、妻が興味を持っていた。そして、かなり大きい作品を、確か、かなりの高齢になって制作しているらしいから、それで、やっぱり私も見たいと思った。


バス

 展覧会は、意外とたくさん歩くし、思ったよりも疲れるので、できたら、そこまではあまり体力を使わないようにしたいと、自分が歳を重ねると思うようになった。

 東京都現代美術館は、地下鉄の清澄白河駅が出来てからは、そこから歩くようになったけれど、それ以前は、木場駅から歩いて10分以上かかっていたから、徒歩10分以内で行けるようになったのはありがたかった。

 でも、もっと歩きたくないときは、東京駅からバスに乗って、それは多少時間がかかったけれど、美術館のすぐ前のバス停に着くから、気持ち的には楽で、ちょっとした小旅行の感じにもなった。

 今回は久々に東京駅からバスで直接、美術館の前のバス停に行こうとした。

 丸の内北口を出て、歩いて、以前、そこから錦糸町行きのバスに乗っていたバス停は、すでにそこになかった。

 ちょっと焦って、駅の周りを少し歩き、バス停を発見し、そこに行ってから、自分たちが乗るバス停を見つけ乗り込もうとして、運転手に聞いたら、「美術館前には、もう行きません」と言われた。東京駅から、現代美術館のバス停に直通していた路線はなくなり、途中の木場駅で乗り換えないと、たどり着かないのを知った。

 結構ショックだった。

 それを知っていたら、最初から地下鉄で行っていた。ここから乗り継ぎをしたら、お金もかかるし、時間もかかる。昨日も調べたはずなのに気がつかなかった。でも、もうここから乗るしかない。同じ時刻に家を出て、清澄白河駅から歩いた時と比べると、たぶん、1時間くらい余分に時間がかかってしまう。

 いろいろと考えて嫌になった。

 それでもバスに乗って、木場駅のバス停で降りて、少し迷っている私たちに、その運転手は、運転席から乗り出して、さらに次のバス停の行き方まで教えてくれたからありがたかった。

 バスが来て、バスに乗る。
 何度か来たことがあるだけで、微妙になつかしい気持ちになる。
 バス停で降りる。

 この前もきたハンバーガー屋はすぐに目に入ったけれど、確かあったはずのバス停付近のコンビニがなくなっていた。

 本当は、かなり前からなかったはずなのに気がついていなかったのと、それに、知らないうちにバス路線もなくなり、美術館前のバス停も撤去されていたことに、時間の流れとか変化とかを感じ、それはちょっとショックと共に、なんだか寂しい気持ちになった。

チケット

 美術館に入ったら、列ができていた。

 この美術館に来るときには、いつもはかなり空いていて、展示室には、警備をしているスタッフと、自分たちしかいない場合も少なくなかった。

 だから、チケットを買うだけで列ができているのは珍しく、そのことでまた少しショックを受けたのは、ここまででも予定よりも遅くなっていたのに、さらに時間がかかるからだ。

「デイヴィッド・ホックニー展」。一般で2300円。いつもよりも入場料金が高めなのは、海外のアーティストで、しかも大物だからなのかなのかと思って、そういえば、この前のマティス展も、こういう値段だった。

 それでも、スタッフが掲げていた「15分」という目安通りにチケットは買えて、それからロッカールームに行って、こういう場所のロッカーは格好よくできていて、といったことを改めて思って、荷物を入れて、中に入った。

デイヴィッド・ホックニー

 最初は3階の展示室にあがる。

 デイヴィッド・ホックニーは、1937年生まれ。だが、これまでその生まれた年をほとんど知らなかったし、意識したこともなかった。だけど、今回は、まだ学生時代の作品も並んでいて、フランシス・ベーコンに似ているというか、ここからもうちょっと肉体を変形させたりしたかったのかも、などと思える作品もあった。

 当然だけど、最初から、現在の「デイヴィッド・ホックニー」だったわけではなく、試行錯誤の、それもまだ自分が定まっていないから、とても影響を受けやすい頃もあったのだと改めて思う。

 だけど、そのほぼ時代順に展示されている作品を見ていると、1960年代に入ってから、アメリカの西海岸に住んで、それもポップアートの影響もありながらも、独特の明るく、その上で微妙に空しい感じもある作風にすぐに変わっていったように見えた。

 個人的には、あの明るく、寂しい、すぐにホックニーとわかるような、プールの作品をもっと見たかったのだけれど、今回は、回顧的に、キャリアの全てを見せる、といった狙いがあるせいか、恥ずかしながら、ほとんど知らなかった肖像画も多く見られた。

 でもそれは、成功した画家が、仕事としておこなっているようにも思えたし、さまざまな試みの一つとしての写真のコラージュも、それがキュビズムの再現のように言われていたと記憶しているが、それほど効果的でないようにも感じた。

 ただ、それは、それほど詳しくないただの観客の思い込みかもしれず、これだけの長いキャリアと膨大な作品がある作家の一部を見て、勝手なことを言っているだけかもしれない。

 そう思えるほど、今回も全部ではないのだろうけれど、ホックニーが、そのスタイルを確立したと思える1960年代以降も、ホックニーは何十年も生きて、そして、さまざまな作品を制作していたのは、展示を見ていると、わかる。

 さらに、途中で、iPadを使っての作品の制作過程を展示している場所もあって、それは人も集めていたのだけど、その映像の時間が10分弱で、そうした設定も含めて、人に見せることに対しての意識は、(そのアイデアは周囲のスタッフかもしれないけれど)ホックニー本人も高いのだろうと思えた。

 さらには、これまでの自分の作品が並べられているスタジオを、ホックニー自身も入って、写真を利用しての巨大な作品に仕上げたり、自身の描いた花の絵画を、ホックニー自身がゆったりといすに座っている姿も入れて大きな作品にしてあるのは、一種の自慢話のようにも見えた。

 同時に、こうした作品はさまざまなテクノロジーを駆使しているという意味でも、もっと「巨匠」として扱われる未来も見えるような気がした。

 ただ、とてもゲスな推測だけど、ファインアートで、こうした東洋の端の国の人間にまで知られるようになったら、完全に成功したアーティストなのだろうし、西洋のアーティストであれば、収入的にも恵まれているのだろうから、それほど無理をしなくて、隠居のような生活をしてもいいのに、と思っていた。その方が、伝説となりやすいから、という印象もある。

 でも、とにかくつくり続ける姿勢を、より強く感じたのは、展示室の1階に行ってからだった。

風景

 20世紀末、60歳を超えたホックニーは、生まれ育った故郷といっていいイギリスに戻ったようだ。

 そこで植物を中心とした風景画を描き始める。

 1997年からおよそ15年間、ホックニーは幼少期に慣れ親しんだヨークシャー東部の自然や風物を抒情豊かに描きました。破格の大きさを誇る油彩画《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007年)は、タイトルが示すように複数のカンヴァスを戸外に持ち出し、自然光の下でモチーフとなる木々を前にして制作された風景画です。

 ロサンゼルスと、イギリスのヨークシャーは、おそらく真逆に近い環境のはずで、それは失礼な例えかもしれないけれど、光を基準とすれば、「明」から「暗」の違いもあるくらいで、その上で、人工物であるプールから、自然に属する植物を描き始める。

 そうした変化は、「大物」のアーティストが、あえて晩年に行なった方が、評価がより高まりやすいような印象もある。

 ただ、この《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007年)は、今回の展覧会でも、展示室の一つの壁一面を全部使うほどの巨大な壁画であって、これだけの大きさの風景画、それも、とても広い範囲の風景ではなく、比較的、近所の林といった規模のものだから、特に近くに寄って見上げると、遠くからは具象よりは抽象に近づいた造形にも思える。

 そう考えると、21世紀に具象的な風景画を描く意味はあるのだろうか、といったことを、現代美術の鑑賞者はすぐに思ったりもしてしまうのだけど、この絵画のすぐ前に立って見上げると、誰でも経験があるような、地域の大木と接したときの感覚が蘇る。

 植物には、あの、とにかく成長し続けるようなエネルギーがあるから、しばらく手入れをしないと、うっそうとする怖さのようなものも伝わってくるようで、それは、リアルでうまいというようなことでないけれど、樹木の凄みのようなものも感じたので、やはり、すごい作品なのかもしれない、と思った。

 しかも、タイトルに「ポスト写真時代の戸外制作」という言葉を入れることで、新しい方法を使っているという意識が、鑑賞者にさえ強くなる。それは「印象派の反復」といった理屈もつきそうだ。

 だから、やっぱり現代アートの作品なのだろう。

テクノロジー

 2010年にiPadが発売されると、ホックニーは、そのテクノロジーを生かして、すぐに絵画制作を始めたらしい。

 ホックニーの故郷、イギリスのヨークシャー東部で2011年に制作され、この度日本初公開となる幅10メートル、高さ3.5メートルの油彩画《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011年)も注目です。本展では、同じく日本初公開となる大判サイズのiPad作品12点とともに、本作を展示します。

《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》と違って、この《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011年)は、より、ベッタリと一面的な塗り方になっているようで、その色彩ははっきりとしているものの、個人的には、2007年の作品の方が、すごいと思っていて、何か、この「春の到来」はとても平凡なものに見えた。

 その同じ展示室にあるiPadを利用し始めた頃の作品の方が、ホックニー本人の、少しヘニャヘニャしたような「へにゃい」線自体の魅力が出ていて、逆に味が出ているように思えた。

 ということは、もしかして、iPadが登場し、使ってみて、思った以上に、自分の描き方の癖のようなものが再現されるのを知り、油彩画の方は、あえて、その筆跡を消そうとした。とも思えるけれど、ただ、ホックニーは、プールの作品なども、ずっとそうしたクリアな筆致を使ってきたのだから、どうして、この「春の到来」の描き方だけ、ベッタリ感が際立つのか、不思議だった。

 ただ、この展示室も、撮影は許されていて、スマホやiPadで、写真を撮り続けている人がほとんどだった。だから、ここは作品の鑑賞ではなくて、作品の撮影のためにある空間のようにも感じた。

 そして、もしかしたら、この絵画のベッタリ感は、撮影され、インターネット上に公開された時の方が、鮮やかで平面性が強い分、より、魅力的に見えるのかもしれない。

 それに巨大な横長の作品は、全体を一枚の写真で収めるのは難しく、部分を撮影した場合、どの部分も一様に同じ密度で色彩が展開されていた方が、印象が強くなるように思う。

 もしかしたら、そうしたことまで考えられているから、現代のアーティストの、現代アートの作品かもしれない、などと思った。

(この展覧会のチラシは、この「春の到来」が使われていて、もちろん全部は入っていないし、2つ折りなので、ここに写っていない部分への想像が勝手にふくらむので、実物よりもチラシを見ていた時の方が、個人的にはすごい作品に思えていた)。

部分の拡散

 そして、最後の展示室全体を使って《ノルマンディーの12か月 2020-2021年》の作品が展示されている。

 絵巻物のように、90メートルの長さを使って、1年間の四季が描かれている。それもiPadが使われている、という。

 ただ、この作品を見ていて、うまいわけではない。かといってホックニーのちょっと力の抜けたような線の魅力も感じない。とにかくただ風景を描いている、という、考えたら、絵画の原点を、iPodを使ったことによって意味を持たせるということなのだろうか。

 それにしても、絵画としての魅力が足りなくないだろうか。生意気にもそんなことを思いながら、ずっと歩いて見ていた。ただ、同じ部屋で見ている私と同じような観客の多くは、とにかく撮影をしている。

 これだけの長さがあるから、おそらく全部を撮影するのはほぼ不可能で、それぞれの人が自分が気に入った切り取り方をして、それをSNSなどにあげるはずで、すでに、その数は膨大なものになっていると思う。

 だから、もしかしたら、それらの無限に近いイメージを目にした方が、そのことによって広がる絵画への印象の方が、とても強く、すごいものになっている可能性が強い。

 当然だけど、今回も、平日とはいえ、現代美術館にこれだけの数の人が来ていて、こんなに展示室に人がいっぱいになった光景もほとんど記憶にないから、かなりの人数が来ているのだろうし、入場料を払わないと入れないショップでも、レジで並ぶのに10分以上はかかったから、集客という意味でも成功かもしれない。

 このホックニー展に、若い人たちも多かったようだし、どうして、ここまで人が来たのだろう、と不思議だけど、それでも、実際に展覧会に足を運んだ人よりも、当然だけど、世の中の総数から考えたら、来なかった人の方が多いはずだ。

 インターネット上に大量のホックニーのイメージがあれば、それを目にする人は、展覧会に足を運んでいない人も含めて、実際に会場に来た人よりもかなり多い数になるはずで、そして、その「部分の拡散」を見た方が、その実際の作品以上に、その印象は、よりすごいものとしてふくらんでいくような気がした。

 ホックニーは、そこまで考えていたのかもしれないから、やはり、現代のアーティストなのだろうと改めて思った。

意味

絵巻物のように周回するかたちで展示された本作は、コロナ禍においてホックニーが自らの周囲の風景を見つめながら描いたもの。

 同時に、この巨大な作品が制作された時期はコロナ禍だった。

 場合によっては家に閉じ籠るしかない時間も世界中の多く人も経験した頃に、遠くではなく、比較的身近な風景を描いた、ということで、そこにまた「意味」が加わっているから、その作品の表面的な質だけでわかるものではなく、やはり現代アート、ということになるのだろう。

 ところで、今回の展覧会で、スマホやiPadでの撮影は許可された場所があったのだけど、カメラは、全面的に禁止だった。自分自身は、デジタルカメラしか持っていなかったので撮影ができなかったのだけど、不思議ではあった。フラッシュをたかないように撮影すればOKという展覧会が増えているけれど、こうした区別をしている展覧会は初めてだった。

 だから、このことになんらかの意味があるのかと思い、スタッフに聞いたら、出展者(ホックニー)の意向です、を繰り返すだけだった。カメラよりも、SNSなどのインターネットにつながっている機器を優先させている、ということかもしれない、などと勝手に考えたのだけど、ただ禁止、ということしかわからなかった。

 こんな「意味」まで(観客が勝手に)考えてしまうから、それも含めてホックニーは、現代のアーティストなのだと思う。

長寿の「巨匠」

(このイギリスの大回顧展への記事↑は、ホックニーのイギリスでの立場など、かなり批評的に書かれているので、ただ褒めるだけの視点ではないことに興味がある方にはおすすめです)。

 すでに、ここ数年の間に、ロンドンのテートブリテンと、ニューヨークのメトロポリタン美術館で「大回顧展」も開催しているから、すでに「巨匠」の評価への準備は、万端になっているようにも思う。

 今回の日本の大規模個展での、ショップのポストカードには、他の展覧会ではあまり見られないほど、「デイヴィッド・ホックニー展」という文字が大きく印刷されているから、名前が偉大である、ということを形にすることによって、より巨匠化を推進しているような気がして、このポストカードを含めて、現代アートのような気がしてくるのは、考えすぎかもしれないとは思う。

 だけど、ただ視覚的に気持ちいい、といったことだけではなく、こうして、いろいろなことを考えさせてもらえたから、やはり現代の巨匠なのだろう。

 それにしても、バスキアは20代で亡くなってしまったし、ウォーホルも50代で死去してしまったし、まだジャスパー・ジョーンズがさらに年上で存命だとはいえ、ホックニーも、80代を超えて長く生きている上に、現在も作品を制作し続けることによって、さまざまなものを手に入れたような印象があるし、まだ、さらなる「巨匠」になっていく可能性もある。

 長寿の凄みは、やはりあるのだと思った。


(2023年11月5日までの開催です↓)。


(この記事↓も全体像を把握するのに、役に立つのだと思います)。



(こうした書籍↓も制作しています。なんだかすごいと思います)



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしければ、読んでもらえたら、うれしいです)。



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