「手づくり」への思いや気持ちを、考える。
年末に向かって、東京都内のコロナ感染者数が増大し、大みそかには1000人を超えて、思った以上に不安になっていて、さらに加えて喪中のせいもあるのか、他のことまで気が回らなかったせいなのか、ここ10年くらいでも初めて、コタツとテレビのある部屋に飾る2021年の、うちにとってはメインのカレンダーを買うのを忘れていた。
もう、今年は、1月のカレンダーは、あきらめていた。
誰かにもらえるまで待つか、もう少したってから値段が下がってからのカレンダーを買おうと秘かに覚悟していた。
いつもと違う新年になるけれど、それは、「コロナ2年」(リンクあり)としては、ふさわしいのかもしれない、などとも思った。
新しいカレンダー
大みそかも、妻はいつものように午後11時前には寝たし、私も、深夜までやたらと長く続くテレビのバラエティを見ないで、珍しくラジオを聴きながら年越しになったら、村上春樹の声で年があけた。
起きたら、新しいカレンダーがあった。
意外だったけれど、うれしかった。
妻が描いてくれたもので、すごくいいと思った。とても可愛い仕上がりだった。
それは、思わず写真に撮りたくなるようなものだったのだけど、ちょっと考えると、もし、これが妻が作ってくれたものではなく、知らない他人が描いてくれたものだったら、どうだったのだろうか。
もちろん、うれしさの質は違ってくるとは思うのだけど、でも、カレンダーを作品として見た時の、質に関する「評価」(偉そうな言い方ですみませんが、個人の意見みたいな感じです)は、本当に同じになるのだろうか。
そのあたりに関しては、自分自身では冷静さがあると思いながらも、それは家族へのひいき目に過ぎず、私にとっては、ややラフに仕上げた感じが、初期衝動が現れていて、それが良かったのだけど、他の人が見たら、乱暴なカレンダーに見えてしまうのかもしれない。
そんなことをわざわざ考えるのは、妻にも失礼だとは感じるのだけど、そういえば、年末に、そんな番組をやっていた。
AIによる作品
この番組の中で、AIがこれから色々なことができるという話題になり、それは絵画にも及ぶのではないか、という話も出ていた。特に技巧的な絵画はAIがやりやすいかもしれない、と話が進んでいた。
さらには、例えば感動的なプロポーズをAIに考えてもらい、それを伝えて、プロポーズが成功したとして、だけど、感動は一緒でも、それが本人ではなくて、AIと分かった瞬間に、そのプロポーズはダメになるのではないか、といったことも話をしていた。
誰が作ったか。誰が描いたのか。誰が( AIも含めて)考えたのか。
その出来上がりの質も、もちろん大事なのだけど、そうした「誰によるもの」かが、人の感情に大きく影響を与えるのは当然だとも、改めて思う。
本人の感想
妻自身は、今年のカレンダーがないから、他にもらえるかもしれないので、それまで、という軽い気持ちで、このカレンダーを描いたらしい。
だから、これすごくいい。と言う私に対して、微妙な戸惑いがあって、急いで描いたから、完成度も低いし、みたいな言い方をしていた。
といった言葉を聞くと、自分の「評価」みたいな力みが、ただのひいき目に過ぎず、恥ずかしい思いにもなるが、今見ても、やっぱり「いい」と思えるので、この1ヶ月は見るたびに、そんな気持ちになれるとしても、それは、外から見たら、いろいろな意味でバカみたいなことかもしれない。
それでも、今のところ、もしカレンダーが手に入ることがなかったら、妻の負担になるので難しいかもしれないが、ずっと描いてもらいたいような気持ちがあった。少し打診して、私から現金で依頼しようとしたら断られたので、頼むとしたら、また相談することになると思う。
新年が明けても、コロナ感染の増大のニュースを聞いて、不安だけが大きかった中だから、全く期待もしてなかったのに、こうしてカレンダーを描いてくれたことが、思ったよりもうれしかったのもしれない。
そして、東京都内では、新規感染者数が2000人を越えてしまい、さらには緊急事態宣言が出され、かなり不安がふくらんでいるものの、新しいカレンダーに、今のところの予定を書き込む時に、カレンダーのうれしさは、まだ残っていることに気がつけた。
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