テレビについて(68)テレビドラマ 『降り積もれ孤独な死よ』は、どうして面白かったのだろう?
地域によって放映時間は違うのかもしれないけれど、首都圏での日本テレビの日曜日午後10時30分からのドラマは、特にここ何年かは独特な気配がしている。
日曜日午後10時30分
全部を見ているわけではないが、最近では「アクマゲーム」が、途中からファンタジー界の「カイジ」のようになってしまった上に映画につながる、ということで、ちょっとがっかりしたし、その少し前の「CODE」は、人間の愚かさのようなものを強く感じたものの、それに対して自分も含めどうしようもできない無力感によって、それは悪いことではないが、気持ちが重くなった。
この「枠」はちょっとしたチャレンジドラマなのだろうか。日曜日の午後10時以降というのは、すでにゴールデンと言われる時間帯でもなく、多くの人にとっては明日から仕事だから、もしかしたら、見る人が少なくなっているというデータがあって、だからこそ、ちょっと変わった印象が強くなったのが、『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う』だった。
横浜流星が格闘技が相当に強い、というエピソードは知っていたが、清野菜名が身体能力が高いというのは知らなかった。
少し考えたら、二人のアクションもできる俳優で、格闘場面を見せるドラマにしたかったのだろうか、といった狙いのようなものも考えてしまうのだけど、それよりも、横浜流星が、清野菜名をコーヒーのフレッシュの動きによって催眠状態にして、戦わせる、といったストーリーは、やはり無理があったし、ヒロインが「パンダ」の格好で戦ったり、「Mr.ノーコンプライアンス」といった登場人物の名前も、もしかしたらコメディーでもあるのだろうか、というとまどいが抜けないまま、最終回を迎えていた。
いつの間にか、この日本テレビ日曜日午後10時30分には、ちょっとした警戒心を持つようになっていた。
『降り積もれ孤独な死よ』
だから、2024年7月から始まったドラマにも少し気持ちが構えていた。
とても暑いときに、画面では雪が降っていた。しかも、「降り積もれ孤独な死よ」というタイトルはあまりにも力みがあって、この言葉のイメージに実際のドラマがついていくのは大変ではないか、と思っていた。
だけど、見始めたら、他のドラマも楽しんで見ていたものの、この「降り積もれ孤独な死よ」は、他の作業をしながらではなく、なるべくきちんと集中して見たいと思っていた。
それは、画面に緊張感があったからだ。
全体的にずっと抑えた暗さがあるトーン。
登場人物の着ている服も黒やグレーなどを中心として、限られた色数しかなかったはずだ。
それは、基本的には暗い気持ちを持っている私にとっては心地がいいものだった。
しかも、ねずみ色といったパッとしない形容詞で語られるような感じではなく、画面はモノトーンで、しかも暗めだったのに、かっこよく感じた。
だから、それは、本当に暗いとか重いのではなく、テレビという大勢の人間がみる媒体なのだから、おしゃれといった要素も入っているので、心地よさもあったのだと思う。
それに画面のアングルと、切り取り方が、よかった。
(エヴァンゲリオンを完結させた庵野秀明が、ドキュメンタリーで、とにかくアングルが大事、といったことも言っていたと思う)。
素人の視聴者が、そういうことを言い出すのもやや恥ずかしさがあるが、最近はドローンの使用率が上がったせいか、真上からの画面も増えてきた。ただ、それは、その場面を効率よく説明するために、必要な要素を入れてしまうだけに見えてしまうことも、少なくなかった印象もあった。
だけど、「降り積もれ孤独な死よ」で、そうしたアングルのときは、説明、というよりは、視点が切り替わったことによって、少し不安定になったり、その画面の印象が強くなるようなことが多かった。
登場人物が大きな墓地で移動するシーンも、画面の片隅に映り込んだ案内板のようなものは、さびていた。それは、ドラマのずっとざらざらした感じが続くことに、とてもフィットしていたし、その写り込みのバランスも魅力的な絵画のようにも見えた。
荒れたコンクリートの暗い密室の場面も少なくなかったが、そこの照明のだいだい色に近い色味や、あまり明るくならずに基本的には薄暗い中での時間は、このドラマのどこか不穏な空気をきちんと維持していていたし、そのために緊張感も続いていたように思う。
テレビドラマとして、ストーリーだけではなく、画面で語る、ということを見せてくれたと感じていた。
だから、面白いと思っていたのだと、思う。
灰川十三
このドラマの中心にいたのが、早い段階で、ストーリーからはいなくなってしまうのだけど、小日向文世が演じる灰川十三だった。
失礼な言い方になるが、実力があっても長年、あまり注目もされなかった役者が、中年になってようやく正当な評価されてから、その状況によって、人間だから仕方がないとしても、それまでの地道な感じから、ちょっと浮かれてしまうような人もテレビ視聴者として、見てきた。
だから、小日向も、そんなふうになってしまわないかと勝手に不安に感じていたのだけど、でも、今回も灰川十三という、目立たざるを得ない風貌を持ってしまった人を、サングラスという小道具を生かし、服装もずっと黒っぽく、不穏で得体が知れないが、でも、実は冷たくないような複雑な人物を存在させてくれていた。
それを、表面的な違いだけではなく、ちょっとゆがんだ立ち姿であるとか、声のトーンとか、最低限の表情で、表現していたように思ったが、見ているときは、そんなふうな冷静さよりは「灰川十三」という特異な人物を、それでも、環境によって、そうなってしまった、まるで実在するような人として見ていたと思う。
それほど言葉数も多くなかったし、ただ黙って立っているときも多かった印象もあるが、その画面にいる姿で、このドラマのストーリーを動かし続けているように思った。
改めて、どう見えるか、が役者にとって重要だと、ただの視聴者にも分からせてくれた。
あいみょん
個人的には、あいみょんは「生きていたんだよな」で知るようになった。それは、深夜のテレビドラマの主題歌で、自殺をテーマにした曲だった。
それが、メジャーデビューの曲で、2016年のことで、数年経ったら、誰もが知るような存在になって、ずっとヒットする曲をつくり続けてもいるので、すごいと思うと同時に、熱心なファンでもないので、失礼かもしれないけれど、いろいろな意味で疲れがたまってしまうのではないか、といったことを思ったのは、2024年だった。
これもドラマの主題歌で、そして、この「アンメット」が、「天才外科医」の描き方をかえてしまったことも含めて、優れたドラマだったと思うのだけど、それが仕事とはいえ、あいみょんは、あまりにもこのドラマに忠実な歌を作っていると思った。
それはすごいことなのだけど、「生きていたんだよな」の要素を、今でも心と体にも、当然ながら持っているように思える人にとっては、あまりにもポピュラーでありすぎるように、勝手に思っていた。
それもあって、自分で歌詞も書いているあいみょんが、珍しく歌番組で言葉を間違えたのは、そうした無理が顔を出したせいかもしれない、などと感じていた。
だから、「アンメット」に続いて、また「降り積もれ孤独な死よ」の主題歌も担当していたのだから、仕事量としては、ハードで、より大変ではと思っていたのだけど、ドラマの中であいみょんの歌声と言葉を聞いたとき、勝手な感慨かもしれないけれど、あいみょんは自分を保つためにバランスをとろうとしているとも思って、その行為も、ドラマの空気感と合ってるようだった。
歌詞も、きちんと暗さがあって、このドラマのざらざらした気配とも合っていた。メロディーには明るさがあり、歌詞にも、その先の希望を入れながらも、その声のトーンは低く、そういう意味でも、考え抜いた方法だと、勝手ながら感じた。
こうやって、仕事としてドラマに適合した曲を制作し、自分の中の暗さも大事にするようなあいみょんの姿勢は、なんだかすごいと思った。
感覚とドラマ
画面という視覚、音楽という聴覚、ストーリーだけでなく感覚に対して、きちんと働きかけること。
そのことによって、もちろん他の要素もあるとしても、まずはその構造が行き届いていたから、『降り積もれ孤独な死よ』は面白かったのだと思う。
今は、ドラマが最終回を迎えても、全部を視聴することができるはずなので、もし、興味を持ってもらった人がいらっしゃったら、できたら、大きな画面で、ドラマの最後に、明らかに画面のトーンが変わるところまで、ゆっくり見てほしいと思っています。
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