2年ぶりにうなぎを食べて、思い出したこと。
年齢が高いほど、そういう感覚になるのかもしれないけれど、うなぎは、今でも、自分にとっては、ごちそうな印象がある。最近は、収入の低さもあって、値段の高いうなぎには、手が伸びにくく、気がついたら昨年は食べていなかった。
それが、最近、ご近所の方に、妻がたまたまうなぎをいただくことがあった。
すごくありがたかった。
誰かが言っていたと記憶している「客は情報を食べている」の中で、最も長く続いているのが、もししかしたら「土用の丑の日」にうなぎを食べるという習慣かもしれないなどとも思っていた。
それに、うなぎは、それほど頻繁に食べないせいか、少し記憶をたどるだけで、結びついている思い出のようなものも鮮明だったことに改めて気がついた。
うなぎ屋の記憶
子どもの頃は1年に何回かくらい、親に連れられて、うなぎ屋に行った。当時は、中部地方に住んでいて、クルマで何十分かかかる少し遠い街まで出かけていた。その時のうなぎがどのくらいの値段かは分からなかったけれど、それほど安くはなかったと思うのは、確か、そこはうなぎ専門店だったし、門構えがそれなりに立派だったせいだ。
その店では、自分が右腕が痛いときに、謎の整体名人の話を聞いて、そこから親が運転して1時間以上かけてうねる道を向かったこともあった。暗い山道の先に、その謎の名人がいた。右腕をにぎられ、引っ張られ、痛くて「泣いてもいいんだよ」などと言われたのだけど、そう言われたら小学生でも泣けない。しかもそれから1週間後くらいにまた痛くなって、病院に行ったら「半脱臼」と診断されて、どうして早く病院に来なかったのか?と言われた。
あの名人に対しての疑念は高まったが、あのとき、うなぎ屋で話を聞いて、住所までたずねて、そこから自動車に乗せていってくれた両親の行動は、その後に、謎の整体師にもお金を払っていたようだから、どうして信じてしまったんだろう。とは思うけれど、考えたら、子どものためにすぐに行動してくれた、というのは、すでに両親共に亡くなってしまったのだけど、やはりありがたいことだと思うようになった。
成人式
20歳を迎える頃、親に何かしらのお礼を伝えようという気持ちはあって、だから、国立競技場でラグビーやサッカーの試合があったとき、そこでビールの売り子のアルバイトをして、お金をもらい、それで親にうなぎをごちそうしようと思った。
たまたま、実家から徒歩5分くらいの場所に、鎌倉に本店があるそば屋があって、うなぎがおいしいと言われていたので、そこに行くことを提案した。アルバイトは、売れ行きに左右されるものだけど、競技場の試合が気になってしまったこともあって、思った以上に稼げなかった。
完全に自分のせいなのだけど、それで、最初は、両親と弟と自分の分を出そうとしていた予定はずれて、弟のぶんは足りなくなり、恥ずかしい話だけど、そこは両親に払ってもらうことになったから、とても中途半端だけど、そこで、うなぎを食べたのが、自分にとっての成人式になった。
年齢的にもそれほど素直にコミュニケーションを取れていなかったから、喜んでくれていたのだとは思うけれど、その時の両親の反応もそれほど覚えていない。それは、今から振り返ると、なんだか残念なことだと思ったりもする。
グルメな同僚
値段的にも、それほど日常的な食べ物ではなかった。
だけど、ある会社で契約社員で働いているとき、喫茶店のランチのカレーに対して、ぬるいです、かえてください、とはっきり言えるような、そして、まだそれほど広く言われる前のラーメン二郎の話もよくしているような、おいしいものに詳しく、味に信念のある同年代の人と働いていたことがあった。
職場は、今は、「奥渋」という名称がつくような場所だったけれど、20世紀の頃の、当時の私にとっては、渋谷駅から歩く遠い場所だった。でも、その同年代の人と、昼食をよく食べることになると、魚屋や、和食屋、中華料理など、自分では入らないような店に行った。そこは、すごく高いわけでもないのに、確かにおいしかった。それで、自分の視点も広がったように思う。
その頃、一度だけだと記憶しているけれど、そのあたりのうなぎ屋に行ったこともある。それは路面店で、店構えもあっさりしていて、もちろん、うなぎだから、激安ではないけれど、いつものランチよりも少し高い程度だった。
そこは、その店の主人が、語る人だった。
おいしいものに詳しい同僚と一緒に行ったけれど、何度も来ているようで、そこの主人と普通に話を始め、その上で、私という初めての客もいたので、語りも始まった。それによると、うなぎに対して、天然にこだわる店も多いけれど、おいしいかどうかは、そういう問題じゃない。養殖であっても、それをどう料理するかで味が違う。天然でも、下手だったら、美味しくならない、ということだった。
それは、自信がなければ言えないことだったし、確かにその通りだと思ったし、食べたうなぎは、おいしかったはずだけど、味のことよりも、その主人の信念のようなことの方が、印象に残っている。
静岡のうなぎ
仕事で静岡に行ったのも、20世紀の終わりの頃だった。
そのときに連れていってもらったのが、うなぎ屋だった。
当たり前だけど、静岡は浜名湖があって、うなぎパイもあって、何しろ県外の人間から見たら、うなぎの本場だった。
そこで、恐縮しつつ、うなぎ屋に連れていってもらったのだけど、当たり前のようにおいしかったし、うなぎの骨まで食べさせてくれて、うなぎの文化の幅広さのようなものまで、味に対しては鈍い方だった自分にも伝わってきた。
だから、その土地に根差した食文化というのは、想像以上に複雑で、豊かなものだということは、少し分かったような気もした。
絶滅危惧種と密輸
21世紀になって、値段が上がってきた印象もあったのだけど、うなぎに関しては、絶滅危惧種、ということがだんだん広まっていて、それを私まで知るようになったから、やはり食べる機会が減っていった。
もちろん自分一人が食べなかっただけで、絶滅から遠ざかるわけでもないのだけど、絶滅危惧種に指定されているのを知ってしまうと、わざわざ食べようというような気持ちが減っていった。
さらには、密輸といった犯罪のワードまで、うなぎに対してからむようになると、余計に気持ちの腰が引けていった。
この2021年の記事を読んでも、「土用の丑の日」に大量消費する特殊事情も含めて、さまざまな問題点が複雑にからんできているし、その期間もかなりの年数が経つので、より解消が難しくなっている、といったくらいのことしかわからなかった。
ただ、平賀源内が、実は旬でないうなぎの販売促進のために「土用の丑の日」を利用したという説もあって、だから、そういう無理も長い年月が経ってアダになっているような印象もあるし、どちらにしても、うなぎからは遠ざかりそうな話題だった。
現状が「正常」でないことを水産庁も把握しているようだ。
そして、それを正常化しようとする意志は伝わってきたが、それに続く具体的な方法となると、こちらの理解力の問題もあって、とたんにわからなくなって、やはり気持ちが遠ざかってしまう。
カズレーザーだったら、こうしたことも分かりやすく説明してくれるのだろうか。池上彰さんは、どうだろう。というより、さかなくんは、この問題をどう考えているのだろうか、といったことも思ってしまうが、それは意地悪な視点なのかもしれない。
2年ぶりのうなぎ
そんな現状があったとしても、断固としてうなぎを食べない、といった意志の強い行動もできず、ご近所の方にいただいたら、ありがたくうなぎを食べることになった。
こんなにこってりしていたことを忘れるくらい、うなぎの味を覚えていなかったのに、自分で少し驚いたが、それでも、やっぱりおいしかったし、ありがたかった。
今後は、うなぎはさらに高価になり、よりごちそうになっていくのかもしれないから、次は何年後になるのだろう、などという気持ちにもなっていた。
ただ、その一方で、最近、うなぎの稚魚を人工飼育できそうだ、というニュースも聞いたから、天然とか養殖とかの区別はなくなり、すべての食用のうなぎは養殖になり、この人工飼育が軌道に乗れば、絶滅危惧種の問題や、流通のことや、価格の高騰も「解決」の方向に向かうのかもしれない、などと楽観的な気持ちにもなる。
そうなれば、昔、渋谷のうなぎ屋の店主が語っていたように、すべては料理人の腕にかかってくるから、技術の高い料理人がいる店はうまい、というごくシンプルな話になりそうだけど、どちらにしても、そうしたうなぎ屋の値段は高そうだから、うなぎとの縁はやっぱり遠いままになりそうだ。
さらには、本来は旬でない「土用の丑の日」だけではなく、本当の旬にうなぎをおいしく食べさせる店も出てくるかもしれない。といったところまでは勝手な想像が走ってしまった。
それだけ、2年ぶりのうなぎが、刺激になったのかもしれない。
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