「東京オリンピック報道」が、「異様」に見える理由。
ラジオで、記者が、オリンピック報道への違和感を語っていた。
始まるまでは、五輪中止の論調だったのに、始まったら、こんなに急に「イェー」でいいのだろうか。この急変も含めて、視聴者や読者は見ているから、これから、やっぱり、見捨てられるようなマスコミの機関は出てくるのではないだろうか。
そんな話(YouTubeでは、午後11時30分以降)を、TBS澤田大樹記者は「中の人」でもあるから、それこそ他人事でないように語っていた。
オリンピックそのものへの是非は、その存在意義や、その運営に関して、長く議論もされてきたが、「オリンピック報道」に対して、こんなに否定的なことが言われ続けているのは、初めてではないだろうか。
「オリンピック開催」の目的
これだけコロナ感染が広がっているのに、「安心安全」を繰り返すだけで、実際には有効な手段をとっていない政府を、報道を通して見ていると、金もコネもない普通の人間の命は全く大事にされない、といったメッセージを繰り返し伝えられているようで、なんだか無力感だけが募る。
だから、基本的にはスポーツのすごいプレーや、信じられないような場面を見るのが好きなのだけど、オリンピックが盛り上がれば、選挙に有利、といった意図があまりにも見えすぎたせいと、連日、新規感染者数が増え、最も増大している東京都内に住んでいると、やっぱり怖いせいもあって、そんなに積極的にオリンピックを見る気もしない。
「オリンピック報道」の「異様さ」
それでも、ふとした機会に、「オリンピック報道」を見る機会はある。
東京都大田区の予約で、幸運にも早めにうてることになり、コロナワクチン2回目の接種のために、7月下旬にクリニックに行った。待合室でテレビを見ていたら、夕方のニュースの時間だった。
午後4時過ぎ。とても明るい口調と雰囲気で、日本選手の活躍が止まりません、といった不思議なほどポジティブな空気のあとに、東京都内で3000人の新規感染、なぜ?というタイトルで、急にシリアスなトーンでのコーナーになった。
オリンピック関係者が、コロナ感染との無関係さを強調するために「パラレルワールド」という表現をしていたが、それとは意味合いが違うものの、ワクチン接種を待つ病院の待合室で見たオリンピックのニュースは、同じ東京都内で行われているはずなのに、全く別世界の「パラレルワールド」で行われているように見えた。。
報道であれば、オリンピックとコロナ感染急増が、本当に関係がないのか?少なくとも、いくらでも検討することはできるはずなのに、お互いが全く別に存在しているような報道をしているのは「異様」だった。
オリンピックへの熱狂
4年に1度のオリピックの時にだけ、その競技を見て、自国の選手だけを応援し、メダルをとったら、とても喜ぶ。どれだけすごいプレーを見せても、メダルに届かなかったら、下手をすれば忘れる。
そして、4年後には、同様な熱狂を見せる。ただ特定の競技に対しての観察力や洞察力は、それほど蓄積されているわけではない。メダルを取れるかどうか、もっとシンプルにいえば、金メダルかそれ以外か。それしか関心がないのではないか、と思えるような言動と報道を、大量に目にすることになる。
その繰り返しが、前回の1964年の東京オリンピックから、50年以上続いてきたのは、いわゆる「先進国」の中では、とても例外的な状況だし「異様」なことのようだ。社会学者・宮台真司氏は、身もふたもない率直な指摘をしている。
日本人は勘違いしがちですが、経済指標から見て日本はすでに先進国でなく、加えて欧米先進国はさして五輪を重視していない。「五輪を実行できることが先進国の証だ」と考えること自体が、後進性の表れなのです。
メダル狂い
こうした点は、数限りなく指摘もされてきたのだけど、本質的に変わることがなかった。そんな状況に対して、オリンピックに出場する日本選手の中で、最も明確に違和感を表明したのが、1996年・アトランタオリンピック出場時の水泳選手代表・千葉すずだった。
競泳女子の主将を務めたアトランタ五輪では、チームが不振に終わり批判を受けるなか、「オリンピックを楽しみに来たんです」「日本人はメダルだけを評価する」と発言し、批判はさらに大きくなった。
この「メダルだけを評価する」という言葉は、表現を柔らかくしているが、当時の報道によれば「メダルきちがい」と言っていたようで、これは精神的な病気に対して誤解を生む表現でもあるので普段であれば適切な言い方ではないが、オリンピックへの「狂信的」な姿勢を表すには、とても芯をくった言葉だとも、当時は思えた。
世界で、3位でも、4位でも、その結果だけ見ても、とてもすごいことに違いはない。ましてや1位から10位まででも、例えば、水泳であれば、その差は日常生活で言えば、とても小さな違いでしかない。
それにも関わらず、オリンピック報道では、その競技の凄さの本質を伝えようとするよりは、金メダルかどうか。そうでなければ、銀か銅のメダルが取れたか。それだけが評価され、4位以下になると、急にトーンが下がる。
その傾向は、今も続いているように思える。
「日本人はメダルだけを評価する」は、今も続く
ある冬季オリンピックで金メダルを期待され、もちろんその力も実績もある選手がいた。それでもプレッシャーが強く、本来の力を発揮できずに、入賞できなかった結果の後、選手本人が何より落胆しているのに違いないのに、競技後の記者会見に現れた選手に、記者からかけられた最初の言葉が、「なんだ、〇〇くん、がっかりだな」だったと聞いたことがある。
それは、メダルかどうかという結果だけに「異様に」こだわり、そのことに自覚的でない「日本人」としては、とても標準的な反応だったと思う。だけど、同時に、とても残酷なことだとも感じる。
その「メダルだけを評価する」事は今も続いていると思う。それが、あまり「異様」に思えないのは、その「メダル信仰」の中に、今も、日本がいるからかもしれない。日本のトップの位置にいる人の、オリンピック開催中のツイートは、今回の「東京オリンピック」で、金メダルを取った人だけの話題で、ほぼ埋められているらしい。
メダル獲得以外は、その過程はどうあれ、とにかく失敗。
そう評価される風潮が、とても強いとすれば、オリンピックに出場するアスリートのプレッシャーの原因のかなりの割合は、今でも、この「メダル狂い」にあるのではないか、と思ってしまう。
「オリンピック信仰」
前回の'64年の東京五輪は、日本人にとっての「意識革命」として機能しました。
当時の世論調査が興味深い。それまで日本人はアジアの一員だという意識を抱いていたのが、五輪後は欧米の一員という意識に変わるのです。
つまり、「これで日本も先進国の仲間入りだ」という大きな意識転換の契機になったのが、前回の東京五輪です。五輪は非先進国が自信を付けるための道具であり続けてきました。(宮台真司)
1964年の「東京オリンピック」は、その時代の日本人にとって、「オリンピック信仰」の始まりでもあって、それを経験した人にとっては、それから50年以上たっても、それが続いていることを「信仰告白」せざるを得ないくらいの、強い出来事だったのだと思う。
今は、実質上は「先進国」でなくなりつつあるから、より、その「信仰」に頼りたい気持ちになるのかもしれない。それは容易に「狂信」に変わると思うけれど。
「オリンピック報道」と「戦争報道」と「スポーツ報道」
そうであれば、その「オリンピック報道」のスタイルは、「〇〇選手が、このような苦労を乗り越え、こうした工夫と、血のにじむような努力をして、見事に金メダルをとりました。そして、その〇〇選手は、『金メダルは、これまで私を支えてくれた方たちのおかげです』とコメントをし、(笑顔か、涙で)大きな拍手を浴びました」が基本になるし、それが最も喜ばれるものになるはずだ。
ただ、これは、それほど詳しくは知らないのだけど、「戦争報道」と質が似ているのではないだろうか。
爆弾3勇士のように、自らを犠牲にして、戦果をあげる、といった報道が、国威発揚につながったと言われている。
勝っている戦争の時は、国内では国民がすすんで祝ったということも伝えられていて、それは、その当事者たちにとっては、オリンピックの金メダルのようなことだったのかもしれないと思わせる。
小学生の頃は、日中戦争、太平洋戦争がありましたので生徒は、皇国史観の思想に燃え戦地の兵隊さん達に慰問の手紙等を書き、又南京陥落シンガポール陥落の際には提灯行列を致して戦争祝賀の行進を町内で行いました。
考えれば、スポーツも、特にオリンピック競技は勝敗をつけるわけだし、そして、自国の代表が出場し、他の国々の選手たちと争う、という構造だから、その報道も、「戦争報道」と似てきてしまうのも自然かもしれない。
戦争報道での「連戦連勝」という表現と、オリンピック報道の「メダルラッシュ」という言い方は、とても似ているし、それは、オリンピックの場合は、(建前としては)基本的には禁じられているとはいえ、自然と「国威発揚」にもつながりやすい。
だから、「オリンピック報道」と「戦争報道」が似てきてしまうのも自然かもしれず、「オリンピック報道」が「スポーツ報道」の頂点のような時代も長かったとすれば、その3つが似てきてしまうのも仕方がないのだろう。
そして、とにかく「結果」を求めて、その「勝利」によって盛り上げていく手法は、「戦争報道」から延々と引き継がれているわけだから、その過程よりも結果によって、気持ちをあげていくのが、「スポーツ報道」の基本になってしまっているのも当然かもしれない。それは「メダル獲得」にこだわる「メダル狂い」と相性がいいのも自然だと思う。
ただ、少し冷静になれば、それは「異様」なのも間違いない。
「スポーツの豊かさ」と映像について
「メダル獲得」するかどうかが重視されるのであれば、例えば球技などであれば、「得点」が、何より大事になる。
例えば、今回もオリンピックに野球が種目に入っているのだけど、ニュースなどでごく短い映像になっているときも、ホームベースに7分くらいの走りで、ホームインする選手が映ることが多い。
そのプレーを可能にするヒットを打った画像を入れるのは理解もできるし、ホームインが際どいタイミングになり、そこで高いスキルの攻防があった場合は、必要な映像だとは思う。
だが、選手が、わりとゆったりとホームに走り込む姿を映すのは、それが「得点する場面」だからだろうけど、それが、「野球の凄さ」や、「スポーツの豊かさ」を感じられる場面には、どうしても思えない。
限られた短い時間であれば、もっとプレーそのものに心を奪われるような場面を映してほしいと思うこともある。
勝利が確定した瞬間の映像
「オリンピック報道」でも、常に「成果」に直接つながる「場面」ばかりが重視される。
「オリンピック報道」で、最も多く繰り返し流れるのは、「金メダル獲得が確定して、選手が喜ぶ瞬間」で、それは貴重なのかもしれないが、それを可能にしたのは、そこに至るまでのプレーそのもののはずなのに、その「過程」は、重視されていないようにさえ思えることがある。
もしかしたら、その競技の生中継の時以外では、その選手の実際のプレーの映像ではなく、メダルを確定させて喜んでいる瞬間の姿の方が多く放送されているかもしれない。
それは、勝利の「結果」としての映像だし、その時のコメントだけが何度もテレビ画面で流れたりするのを見ていると、本当に「メダルという結果」だけが重視されているメッセージにしか思えなくなる。
点数や結果だけでなく、それを生んだプレーそのものを、もう少しでも映すようにしてくれれば、ほんの少しでも「スポーツの凄さや豊かさ」が伝わり、それが視聴者の蓄積になり、もしかしたら、メダルだけにこだわるような貧しい感覚は、減少していく未来も来るかもしれない。
それは、とても難しいのだろうか。もしくは、かなり的外れなのだろうか。
「オリンピック報道」で、それまでに「蓄積された方法論」を選ぶ方が、日常の業務に追われているのであれば楽なのだろう。何か違うことをするには、いろいろな意味での余裕が必要だから、そう考えると、これからも「オリンピック報道」は主に「メダルという結果」だけを伝え続けることになってしまうのだろうか。
映像で蓄積するもの
とても薄い経験ではあるのだけど、ヨーロッパへ短い旅行へ行き、それも決して経済的に豊かとはいえない東欧諸国を回ったときに、テレビでサッカー中継を見た。ピッチ全体を映す映像だけでなく、プレーヤーがボールにタッチしているときの足元のアップの映像もふんだんに差し込まれていた。
実は、そのくらい大きく映してくれないと、そのタッチの柔らかさや、ドリブルのスピードの変化や、フェイントの切れ味などは、わかりにくい。こうして足元の映像が多いだけで、サッカープレーヤーの凄さは、より伝わるように思い、こうした場面に日常的に触れていれば、社会の中に「スポーツの豊かさ」が蓄積されていくように思えた。
それを「日本の視聴者が望まない」という話になりそうなのだけど、報道する側が、もっと見せたいものを、妥協なく伝えるような努力を始めないと、いつまで経っても、結果重視の映像だけが流れ、どれだけ時間がたっても、スポーツの豊かさは蓄積しないのだと、思う。
言葉で伝わること
今回の「東京オリンピック」の競技は、あまり見ていないのだけど、たまたまサーフィン競技をやっていたのは見た。
台風の影響で波の色が違っている状況で、日本代表と、ブラジル代表の選手が優勝を争ってるのは分かった。そして、日本代表が波に乗り、その後、ブラジルの選手が波に向かう。
私は、サーフィンのことは分からない素人だけど、そのブラジルの選手のサーフィンの質が日本代表とは、決定的な差があるように見えた。
変な言い方だけど、波と友達に感じた。日本代表の選手よりも、波に食い込むように、サーフボードがより深く海面に沈んでいるように見え、その上で、(それだからなのか)ボードの方向を変えるのも自在に思えた。軽やかで、楽しそうにさえ見えた。
日本代表が波に乗っているとすれば、ブラジルの選手は波と一体化していた。だから、波が小さくても、大きくても、多少の乱れがあっても、その波と一緒に動き、方向を変えていけるようだった。
それが、技術の「程度の差」なのか、「質の違い」なのかは分からなかったし、テレビでは、日本の選手が銀メダルであることは、繰り返し語られていたけれど、金メダリストの技術の凄さについては、私が聞き逃していたのかもしれないけれど、解説者が、具体的に語ってくれることは、ほとんどなかったように思う。
サーフィンについて、スポーツの凄さについて、映像とともに言葉として伝えてくれたら、もっと違う視点にも触れることができたのに、とちょっと残念だった。
それは、他の競技でも、同様のことが言えると思う。
コロナ禍でのオリンピック
当然だけど、コロナ禍でのオリンピックが、いつもと同じなわけはない。
例えば、開催前、オリンピック出場選手には、優先的にワクチン接種が行われ、それはオリンピックに出場するのであれば、当然のことのようにも思えるが、それでも、アスリート全員が同じように感じていたわけではなかったようだ。
まだ高齢者への接種が済んでいない状況だったから、それに先んじてまで、といった戸惑いを持った選手もいたらしい。
オリンピックが始まれば、すぐに分かることだったと思うのだけど、最初から、快適な環境なわけがない。
ただ、そのことを知らずに来日した選手たちから見たら、その暑すぎる天候は、「ウソをついた」と言われても、仕方がない。
トップランクのテニスプレーヤーから、命に関わる暑さ、という指摘を受けて、試合時刻の変更までが行われた。
トライアスロンのレース後に、嘔吐する選手が続出。東京湾の水質のことや高温多湿、もしくは、トライアスロンではよくある、という説まで出ていた。
「東京オリンピック」は「アンフェア」だ、と指摘する出場選手もいる。
IOCの理事へ対する抗議のデモまで行われたが、始まったら、世論はすっかり変わったというような指摘もある。
そして、何よりオリンピック開催後に、コロナウイルスの新規感染者は増大し続けている。その関係性は、本当のところは、どうなのか。
少し検索しただけで、これほど、いつもとは違うような、さまざまな批判や疑問や異質な出来事があるのだから、「オリンピック報道」としては、幅のある要素を元にした「豊かな報道」が可能になると思えるほどだ。
ここにあげたトピックの一つ一つに、少しでも深く継続的な取材ができれば、それだけで魅力的な、今までとは違う「オリンピック報道」が見られるのではないか、と期待してしまう。
「バブル」のような「オリンピック報道」
だが、テレビをそんなに全部を見たわけではないから、断言はできないけれど、東京都内だけでも、これだけコロナ禍により、もしくはオリンピック運営に対して、批判やトラブルが、いつも以上に起こっているはずなのに、「オリンピック報道」は、いつもと同じように見える。
その映像は、選手や関係者達がマスクをしているのが、外側の出来事との共通点のように感じるが、それ以外は、周囲の出来事とは無縁な「パラレルワールド」のような「オリンピック報道」のように感じる。
「オリンピック報道」こそが、外の世界と隔離された「バブル」の中にいるのではないだろうか。それは、どこか「異様さ」にまで通じることかもしれない。
今は、社会が、コロナ禍という非常事態になっていて、だから「オリンピック報道」の「異様さ」は目立つのだけど、実は、昔から、「オリンピック報道」は社会から見たら「パラレルワールド」でもあったのだから「異様」だったのだと思う。
ただ、これまでは日本は比較的、平和だったから、そのギャップが少なくて、その「異様さ」が目立ちにくいだけだった、のではないだろうか。
成熟した報道
今回のように、その外側の状況も報道するに値する、様々な、今だからこその出来事があり、当然、ネガティブなこともあるけれど、それも含めて、それでもスポーツの素晴らしさを報道できたら、それは、複雑だけど豊かなことまで伝えられる可能性も出てくる。
それが可能になれば、「オリンピック中止」から、「オリンピック礼賛」への人格の変動に見えないような、もう少し筋が通った報道ができるかもしれない。「オリンピック中止」を主張する人にも、「オリンピック推進」を語る、どちらの人たちも、納得させられる新しい視点を提供できるような「オリンピック報道」を見られるかもしれない。
ただ、そうした成熟した報道が難しくなっているのは、実は、ずっと、社会から隔絶された「バブル」のような「スポーツ報道」をしてきたせいだと思う。
社会へ開かれた「スポーツ報道」
以前も例としてあげさせてもらい、繰り返しになって申し訳ないのだけど、元・J O C理事の山口香氏が、こうしたことを語っている
私は柔道界やスポーツ界の基準より、社会の変化や基準を大事にしてきました。私の考えをスポーツ界ではなく、社会にジャッジしてもらいたかったからです。外部の評価がブレークスルーにつながることがあります。
こうした言葉に凄さと未来を感じると同時に、今回の「東京オリンピック」では、ずっとスポーツ界で仕事をしてきた人(スポーツライター)に対して、勝手なのだけど、失望してしまったことがあった。
それは、スポーツ界で仕事をするからには、社会から多少隔絶したとしても、その業界の中での仕事の完成度を磨き上げていく、という「バブル」な方向なのかもしれず、だから、内側にいる人にとっては、何が失望なのか?と思われるような視点なのだろう。
だけど、オリンピックというムーブメントが、本当にスポーツを大事にしているのだろうか?という疑問が本格化したのが、今の「東京オリンピック」だとすれば、これから先は、山口香氏の言うような「社会の変化や基準を大事にする」という「開かれた報道」以外は、冒頭のTBS澤田記者の言う通り、見捨てられるのかもしれない。
これからの「東京オリンピック報道」
これからの「東京オリンピック報道」は、できたら、こうしたテーマを扱ってほしい。
コロナ禍での、東京オリンピック開催の意味とは何か?
そもそもオリンピックは、これからの世界に必要か?
オリンピックは、コロナ禍の日本に、どのような影響を与えているのか?
できたら、もうわずかになったオリンピック期間中に、そのようなテーマも報道できるようになれば、未来につながりそうだ。
それが無理としても、閉幕後、すぐに、オリンピック前、そしてオリンピック期間中に、競技場の中だけでなく、外も含めて、何が行われていたのか、何があったのか。
海外の選手達や関係者たちが、どんなことを話していたのか?
そして、日本の選手や関係者たちが、本当は、どんなことを思い、考えていたのか?
そうした取材素材は、自国開催なのだから、嫌でも豊富にあるはずで、それまでの「オリンピック報道」の常識からいえば、「水を差す」ようなこととして伝えられなかったような事実もあるかもしれない。
それでも、全てを報道し、それ自体が、後世の社会に、今は判断できないような価値までを残せるような「オリンピック報道」をするチャンスだとも思う。
そして、もちろん「東京パラリンピック」に関しても、同様に、これまでとは違う多面的で豊かな「パラリンピック報道」をする機会が残っている。
さらに言えば、すぐにできる「東京オリンピック報道」への提案は、すでにされている。
まずは、最低限、今、コロナ感染を少しでも抑えるためにできることは、始めるべきではないだろうか。
これなら、おそらく今日からでもできる。
あとは、これからも生き残れる報道のために、決断し、実行できるかどうかだと思う。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。