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読書感想  『電線の恋人』 石山蓮華  「うそのない情熱の美しさ」

 その人の存在を初めて知ったのが、ラジオ番組だった。

 番組の中で、「電線愛好家」と初めて聞く肩書きを名乗っていたのが、「俳優」でもあると知って、それは、おそらく現代のリスナーの悪い癖なのだろうけど、無理にキャラを作っている人なのかもしれない、という警戒心が先に出てしまった。

 だけど、話を聞いているうちに、この人は、本物なのではないかと感じ始め、その著作を読もうと思っていた。

『電線の恋人』 石山蓮華 

 冒頭に、「電線」との出会いが描かれている。

 中学の卒業式が終わった後、私はグレーの制服の胸のあたりにカサカサの紙でできた桜をつけ、卒業証書の入った黒い筒を手に持って、にぎやかな校庭の隅でぼんやりと突っ立っていた。
 私は学校に友達がほとんどいなかった。片手で数えられる人数の友達とは、相手が誰かと話していなければ楽しく話せた。心の拠り所である貴重な友人たちは、別の人たちと写真を撮ったり、別れの挨拶をしたりしていて楽しそうだった。
 一緒に写真を撮る人も、別れを惜しんで話す人もおらず、私はただただ、いたたまれなかった。誰かと帰れないかなと思っていたけれど、そのときの私と一緒にいるのは私だけだった。寂しさも悔しさも晴れやかさもないまぜになった気持ちを抱えて校門を出た。

 もっと「マニア」の話だと思っていた読者には、予想とは違う光景が広がっていた。

 この3年間ってなんだったんだと思いながらむんと上を向いたら、そこに電線がのびていた。ケーブルの被覆は、私が嫌々着ていた墓石色の制服と同じグレーに見えた。私は、これまでずっと電線と一緒に登下校していたことに初めて気がつき、ああ、ここにいたんだなと思った。なにがいたのか、その時にはピンと来なかったけれど、私にとってかけがえのない存在であったと言葉にできるまで15年かかった。
 私はそのまま電線を目で辿り、中学最後の下校を終えた。

 その15年後に、この書籍を書くことになったのだから、それは、その長い内省の時間によって、純度が高くなっているはずだ。同時に、これからの内容も、著者にとって「本当に大事なこと」が書かれていることを、きちんと前もって伝えてくれているように思えた。

電線地中化計画

 これだけの年月、電線を見つめ続けてきたのだから、その電線の「生態」について、写真も添えて報告がされている部分もある。

 いつも見ているはずの電線を、違う視点から見るようになるきっかけを与えてくれたり、さらには、電線の変わった「状態」までも見せてくれているから、「マニア本」に共通する楽しさも提供されている。

 ただ、それだけでない「信念の強さ」のようなものを感じる部分も、当然ながらあって、その一つが「電線地中化計画」に対しての、著者のまっすぐな言葉だった。

 まず、その計画に関して、「電線」に関する歴史的な事実を指摘する。

 ロンドンは、ガスと電気が競合する事情があり、アメリカでは電線を外部化するには安全性が低い状況があった、という。

日本では電線が導入され、安全性について検討された頃には、丈夫な被覆の電線が作られていたため、今のように電線を架けられるようになった。実は、電線のある景色は技術力の証でもあったのだ。そのように作られた頭上の道がインフラの経路として全国に広がり、現在も使われ続けている。各都市の景観は、その場所の歴史と密接な関係がある。

 その上で、その「電線地中化計画」に関して、冷静な指摘を重ねていく。

 2017年には電線が邪魔な景色を集める趣旨のフォトコンテスト(注3)が開かれた。そこでは「通行をじゃましている電柱(路上おじゃま属)」「風景をじゃましている電柱・電線(景色だいなし属)」の2部門が設定された。小池百合子氏の「無電柱化を進めるための、フォトコンテストのお知らせ。どんどん綺麗な景色、醜い景色を写真で送って下さい!」(中略)というツイートは議論の的になった。
 栄えある「醜い景色」として選ばれたのは、富士山の手前に電線が掛かった写真と、桜並木に並んで電柱が立ち並ぶ風景の2枚だ。

 そうしたフォトコンテストが行われたのは恥ずかしながら知らないままだったけれど、こうしたコンテスト自体は、あまり健全なイベントには思えない。さらに、電線がある光景に対して、「醜い」と断じる社会経済学者である松原隆一郎氏に対しても、こうした言葉を投げかけている。

 たとえば、松原氏は看板が空中を埋め尽くす香港の街角には美しさを感じているそうだ。香港の看板は互いに重ならないよう配慮されて空中を埋めており、色彩についても横と似ないよう工夫があるからだという。ヨーロッパとは別の美として香港の象徴的な景観を挙げる松原氏は、日本の繁華街の看板は配置や色合いに無頓着で無秩序に感じ、電柱・電線は美しい建築作品や街並みを景観や安全性に配慮なく覆い尽くしているから、醜いと感じているそうだ。
 こうしてみると、美しさを語るための視点がいくつも提示されている。それぞれの国で何が大切にされてきたのか、その場所にどんな歴史があるのか。色彩の選び方、ものの配置一つとっても、美しさにも、ものの見方にもたった一つの正解はない。それは政策に沿って決まることではなく、自分で角度を探り、発見し、人生を通じて付き合い続けることだからだ。

 読み進めるうちに、著者の「電線」への視点や思考は想像以上に深いものであると感じると同時に、もし、「電線地中化計画」を進めるのであれば、著者の指摘や思考よりも深められた「思想」を、提示する責任があるように思えてくる。

 しかし、もしかすると電線が醜いとされているのは、政策のスタート地点が「醜い景観」を決めることだったからではないだろうか。スタート地点で「醜い」と決めてしまえば、どうして醜いのか、どんな景色が見たいのかを細かく検討しなくとも仕事を前に進めてしまえる。
 無電柱化というテーマは、「美しさ」という複雑で多面的で、非常に幅の広いものを政策に組み込み、ものの見方と、物理的な街の形を変えようとしている。
 景観の美について、個人の意見はもちろん自由だ。その上で、ある種「非常識」な私の感覚がどんなものかを知るためにも、違う立場の意見やその背景を知りたいと思った。なにを美とするかという議論は慎重に行わないと、一方的な規範の押しつけになってしまう。
 そもそも、電線をなくせば日本の景観は「取り戻せる」のだろうか。電線愛好家以外の多くの人たちにとって、電線は風景の一部であり、主役ではない。道路や建築物などいくつもの要素のうちの一部である。
 私は、誰かの手を明るいほうへ引こうとするのであれば、何かを貶すよりも、目指す景色の魅力を語りたい。

 こうした言葉を支えているのは「うそのない情熱」だと思った。

電線の恋人

 ここに至るまでの著者の道筋は、それこそ、とても曲がって、それでもかろうじてつながってきたことが、「おわりに」で読者にも、改めて明確にされる。

 小学生の頃から子役としてテレビや舞台にちょっと出ていたものの、心のどこかで、ずっと私は無職のようなものだと思っていた。毎年の契約更新とともに同期が会社からごそっと去っていくので、私も来年はここにいないかもしれなかったからだ。
 どの仕事も好きでやっていながら、どこにいるときも私がここにいるのは間違いなのではないか、いつも本当はここにいるべき人が来るまでの一時的な穴埋め要因なのではないかと思い続けてきた。だから「女優」「タレント」などの肩書きをつけて紹介されたりすると、どこか嘘をついているような気分になった。
 それでも、子どもの社会である学校に今ひとつ馴染めなかった私にとって、大人と関わり合う仕事の場は大切な居場所だった。(中略)
 ただ、自分が大人になるにつれて年齢差も埋まり、仕事の現場にいても、学校生活で感じていたような周囲との噛み合わなさをふたたび感じることとなった。

 私がこうして電線愛好家として活動するようになったのは、以前お世話になっていた事務所のマネージャーさんから「電線が好きって面白いね」と言ってもらったことがきっかけだった。  

 マネージャーさんと一緒に作り上げていった当初の方針は「見た目を清楚なコンサバ女子っぽくして、電線趣味とのギャップを出す」というものだった。超わかりやすい。
 芸能人の仕事でキャラを作るという行為は、自分を味つけし、パッケージに入れて売り歩くことだ。(中略)わかりやすいキャラであることは便利なだけでなく、時短にもなり、ある意味では親切だと思う。
 その戦略によって、まんまと女優(と名刺には書いていなけれど、ギャップを強調するために肩書として採用されることが多い)なのに電線が好きという「キャラ」のおかげで有名な番組にもうまいこと滑り込ませてもらった。

 20代後半に差し掛かった私は、「なのに好き」のキャラを一緒に作った事務所を離れて働いていて、十数年抱き続けてきた戦力外通告の恐怖からも解放され、ぼんやりと、ごく個人的に電線を愛でていた。
 もちろん、「電線好き」というパッケージに嘘はない。でも、好きなものを好きと言うときにいつまで打算を含ませ続け、ジェンダーや他者の目線を内面化した「ギャップ」を道具にし、電線と自分自身を扱っていくのだろうと疑問を持ったのだ。
 電線を愛でるときに感じる、頭がひたすら内側に向かって開き続けるような感覚は、子どもの頃からずっと宝物だった。それは一人ぼっちで電線を愛でるときや、人から「ぼんやりしている」と指摘されているときに生まれていた豊かな気持ちであり、よき孤独だった。一人でじっとしているのに頭の中はずっとにぎやかなのだ。誰かと話しているときには気づけない別の世界に少し触れたような気分になる。ここにいる電線が、街のはらわたを晒したままに「ぼんやり」した私を見守っている。なにも起こっていないのに、世界が隠し持つ繊細なひだの肌触りを感じて涙が出そうになる。脳の中心を演歌の如く巨大な感傷がバトルスみたいな変拍子でバビビ!とぶち抜いていく。 

 これだけの美しい表現ができるようになるまでは、20代後半で、自分の在り方に疑問を持ってから、さらに、繊細で注意深い内省を必要とするのだけど、そうした変化や、さらには、電線の先のことを考えてこないようにしてきたた後ろめたさなど、思った以上に幅の広いことが描かれていると思うので、ここまでで少しでも興味を持ってくださった方は、ぜひ、本書を手にとっていただきたいと思っています。

おすすめしたい人

 何かを好きなのだけど、そのことに対して、迷いが生じることがある人。

 いつもの生活に変化が欲しいと思うようになった人。

 マニアックな人への理解をしたいと思う人。

 毎日が同じことの繰り返しで、退屈だと感じている人。

 そうした人たちにおすすめしたいと思っています。


 さらに、この本を借りて、読んでいる期間中に、著者が、ラジオのメインパーソナリティになっていました。(こちらもおすすめです)。



(こちら↓は、電子書籍版です)。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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