2024年1月1日の気持ち。
いつもはしない年明けをしてみた。
以前は「笑ってはいけない」をみて、笑っているうちに気がついたら、年が明けていることが多かった。最近は、その番組がやらなくなったので、原点に戻って「ゆく年くる年」を見て、旧年中は厳か、新年が明けた瞬間に華やかになる対比が、あまりにもわざとらしいのでは、と思いながらも、それが年越しという伝統芸だと思っていた。
ただ、今年は、岩崎大という哲学の専門家を知り、その発言が面白かったので、年明けに関する発言の中で、クラシックのコンサートのことを言っていたので、それまでは番組名を知っていただけだったのだけど、見ようと思った。
だから、いつもはしない年明けとはいっても、いつもとは違うテレビ番組を見ただけだ。
ジルベスターコンサート
この名前は知っていたけれど、何をするのか知らなかった。その岩崎氏の話で、年明けのカウントダウンにクラシックのコンサートを開き、その会場で年越しを祝う、ということを知った。それは、まるで、貴族の遊びのようなイメージで、自分には関係がないと思ってしまったのだけど、でも、そんなことが行われていること自体を知らなかった。
だけど、紅白などを見て、何か作業をしながらだけど、見ていて、妻はいつもと同様に午後10時30分頃には就寝したので、残りの紅白歌合戦は録画したし、あとは「ゆく年くる年」も録画した。特に、この「ゆく年、くる年」はライブで見ないと意味がないとは思いつつも、それでもなんとなく惰性で録画することが多い。
そして、コンサートのことを思い出し、午後11時30分にテレビ東京を見始めた。
ジルベスターコンサートがどんなものか知らないから、司会の高橋克典と、テレビ東京のアナウンサーの微妙な高揚感が分からなかった。
何曲か自分でもところどころ知っている曲が演奏されたあと、年明けまで残り12分くらいのところから、チャイコフスキー:交響曲第5番 第4楽章の演奏が始まる。
残り何分という表示が画面上に現れ、それが気になって、だけど、残り2分を切ったあたりから、画面に金色の時計が表示され、そして、あと1分と思ったあたりでテンポが始まり、あ、本当にピッタリで終わりそう、だけど、数秒、遅いのでは、などと思っていたけれど、ちょうど午前0時に、会場では、バン!という大きい音でくす玉のようなものが割れて、その終了の微妙な部分は、ピッタリという印象になった。
これは、確かに現地にいたら、盛り上がるかもしれない。
指揮者は、ちょっとピッタリではない、といったことも言っていたけれど、それよりも時計を見て指揮をしていたわけでもないようだったから、この演奏の時間が体に入っているということなのだろう。司会は「完璧でし」というような言葉を繰り返していたし、何より、指揮者が辰年の年男で84歳であること、司会の高橋克典も還暦であることに、2回微妙に驚いた。
年が明けても、さまざまな楽曲の演奏が続き、どれも、これだけクラシックに無知な私でも、聞いたことがある、という曲ばかりだったから、やっぱり気持ちが盛り上がり気味になる。
こんな娯楽を知っている人たちがいたんだ、というのが新鮮だった。
そして、世の中には、もっと想像もできないような楽しみ方を知っている人たちがいることを考えると、なんだか、ちょっと嫌にもなったけれど、そういうことを知っている人と、私のように知らない人とでは、毎日の生活も違っているのだろうというのも容易に推測できた。
それでも、やはり見て良かったと思った。
2024年1月1日
朝になった。
玄関のチャイムの音で目が覚めた。
天気がいい。
それほど寒くない。
目が覚める直前、もう随分前の中学時代のグランドの光景が急によみがえり、それはもう絶対に戻れない時間だし、おそらくはもう様々な建て替えもあって、すでに存在していない場所でもあるはずで、それは、そんなに昔のこととは思えないのに、あっという間にかなりの時間が経っていることに、ちょっと怖くなった気がした。
年賀状
年々、年賀状を出す人は減っているようだし、手間を考えたら、だんだんやめていく人が増えるのも分かるけれど、このつながりしかないような人もいるので、できる限り、年賀状のやり取りは続けられたら、と思っていて、今年も元旦からポストに年賀状が来ていた。
やっぱり、ありがたい。
出したつもりでも、毎年、まだ書いていない人からの年賀状は届いていて、妻と一緒にコタツに入り、録画していた大晦日の紅白歌合戦を見る。
その当時は、それほど強い関心もなかったのに、25年ぶりに集まって演奏している姿を見ていると、その音楽は確かに、あの頃はよく聞こえてきていたせいか、その頃を思い出すわけでもないのに、そこに長い年月があるようで、それでも、まだ、その演奏をしている人たちがエンターテイメントをしていることに、なんとも言えない気持ちになった。
書いた年賀状を、妻がポストに出しに行ってくれた。
新年
新しい年になったといっても、もう特別に抱負などを改めて考えなくなった。
毎日、今日やることにいっぱいいっぱいになっているだけのような気もするが、これからのことを考えると、基本的に仕事そのものが少なくて、不安になる。
同時に、どうすれば、ほんの少しでも真っ当な人間になれるのかは、時々考える。その真っ当といった価値観自体が、あまり明確でないし、もしかしたら時代によって変わるかもしれないけれど、それを考えることそのものも続けないとダメなのだろうと思ったりもする。
おそらくはずっと、そんなことを考えながらも、今年も、そういう基本的なところは変わらないような気がする。
仕事は増えるようにしたいし、同時に、もっと質を高めたい。
それに今年は、もう少し体を動かすことを増やしたい。幸運なことに、毎年、サッカーで集まる機会があるのだから、もう少しサッカーらしい動きができるようにしたい。
そういった平凡なことが、考えたら、やっぱり新年の抱負になるのだと思う。
今年も、妻が用意してくれたおかげで、お雑煮とおせちを食べることができた。
やっぱり、それで正月気分を味わうことができた。
ありがたい。
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