読書感想 『ゆるく考える』 東浩紀 「知性の力の、重要性」
自然に「頭がいい人」は存在する。東浩紀という人を、初めてトークショーで見た時に、圧倒的なものを感じた。理解力と要約力、しかもその反応が的確で早い。それは、生まれながらに速く走ることができる人間と同じような気配だから、見ていて、気持ちがよかった。
しかも、自分の頭の良さを、人に誇るような作業をせず、ただ、目的に向かって、自分の能力を奉仕させている、「頭がいい人」に思えたし、そのことから生じる、話をしている相手への自然な敬意もあるように見えた。
こういうことは、どこか「評価」でもあって、それは、「評価する側」も「頭がいい」という前提が必要だと思われがちだが、その人が圧倒的であれば、「評価する側」にそれほどの「頭のよさ」は必要なくなる。
サッカーを始めたばかりの人間でも、そばにメッシがいれば、その人をメッシと知らないとしても、圧倒的にうまいことは分かるはずだと思う。もし、同年代であれば、ふと冷静に考えれば、自分との差に関して絶望があるとしても、そのプレー自体は、驚きと、気持ちがどこかに連れて行かれるような、解放感は感じさせてくれると、思う。
最初は、21世期に入った頃、現代美術家の村上隆のコンセプトブック「スーパーフラット」の文章を読み、正直、東浩紀が何を書いているのかさえ、分からなかった。「FM芸術道場」というラジオ番組で、村上隆が、東の頭の良さについて、どこか畏怖と共に話すのを聞いてもピンとこないままだった。
それでも、時々、東浩紀の著作は読むようになり、時間がたち、特に2010年代以降の作品は、自分が慣れてきたせいなのか、それとも東自身の変化があったのかは、よく分からなかったが、その書いていること、目指そうとしていることが、とても大事で、いつも思いもかけない視点も提供してくれていることは、少し分かるようになっていた。
今回、紹介しようとしている作品は、2019年に出版され、その時点での過去10年くらいの、東の書いたものを集めている。改めて、東自身が、40代を迎えるあたりからの文章に品が増したように感じたけれど、それは志といったもののせいではないか、とも思った。
ただ、それは私自身が、少し理解できるようになったという思いと、2013年から東自身が運営していた東京・五反田の「ゲンロンカフェ」という場所で、東が話す姿を直接見て、以前は理解できなかった、村上隆が話していた「頭のよさ」を、少しは肌で感じたせいもあるかもしれない。だから、すでに、東の文章に関して思っていることも、バイアスがかかっている可能性は高いが、それでも、状況がまったく変わってしまった2020年の現代でも、検討に値する視点を提供してくれているように思う。
特に、2010年からの、東の表現でいえば「ゲンロン」という「中小企業」の経営によって、表からは分からない大変さや苦労も多いだろうし、そのことで、ツイッターを一時期やめるような、そんな苦境もあったようだが、そうした経験を「知性の力」で、昇華させているように思えた。(2020年現在は、代表を退いている)。
本人に何の落ち度はなくても、襲ってくるような大きい苦労は、時として、その本人を著しくゆがめてしまうから、「苦労はしたほうがいい」とはあまり思わないけれど、底力のある人間には、無責任な言い方で申し訳ないのだが、本当に成長の糧にできるのかもしれないし、そういう中でも重要な発見をしていくのだと、本を読んでいて、改めて思った。
たとえば、「ゲンロンカフェ」でのトークショーについて、こう書いている。
それ以上にラジカルな改革は、壇上の議論から制限時間をなくしたことである。(中略)見知らぬ他人がたがいに心を開くまでには、どうしても時間がかかる。(中略)そこでうちの店では、思い切って制限時間を取っ払うことにした。
例えば、「ゲンロン」では「芸術」や「批評」のための講座も開催してきたが、その理由をこう書いている。
ぼくが講座を開いているのは、天才はたしかにひとりで現れるが、ひとりのままでは生きられないと信じるからである。たしかに天才は育てられない。しかし天才もずっと天才であり続けるわけではない。人生は長い。才能が涸れるときもあれば、作風が変わることもある。それを許す環境がなければ、創作を続けることは難しい。才能は、才能を支える「目利き」の共同体を必ず必要とするのだ。
インターネットについては、こうした指摘をしている。
SNSの人間関係には面倒がない。だからSNSの知人は面倒を背負ってくれない。そんなSNSでも、たしかに人生がうまく行っているときは大きな力になる。けれども、本当の困難を抱えたときは、助けにならないのだ。
人間関係については、自身の経験も含めて、こうしたことを書いていると思う。
家族も友人もあっというまに作れない。面倒な存在でもある。だからこそそれは変化の受け皿となる。面倒がないところに変化はない。情報技術は、面倒のない人間関係の調達を可能にしたが、それはまた人間から変化の可能性を奪うものでもあった。そのことを忘れずにおきたいと思う。
そして、コロナ禍の現在、「ゲンロン」も苦境にあるのも事実だろうが、今後、こうした「体験」の重要性に、東がどのように対応していくか、どう考えるかは、未来のモデルケースになりえる可能性もある。
風評被害は、啓蒙活動や情報公開によって解消されうると信じられている。しかし、知識とイメージの落差は、そもそも原理的に、知識の増加だけで埋まるものではない。おそらくはその落差は、身体性を伴った「体験」によってしか埋まらない。だからこそ観光地化が必要になる。現実にひとを「連れてくる」こと。それでしか伝わらないことは確かにあるのだ。
引用した部分についても、すでに反発を覚える人も存在するだろうし、こうして書いている私にかなり偏りがあるのも自覚している。それでも、知っておいたほうが、いいことはある。少なくとも、「ゲンロン」という現場があるからこその、力を増していく知性のありかたについては、読むことでも、伝わってくるものがあると思う。
ところで、勝手で感傷的な期待だと自覚しながらも、個人的には、東に対して、こうしたことができる人なのではないか、と思っている。
『私はね、「損得で物事を判断しない」ことを「正義」って呼んでいるんです』。 「たとえ世界が終わっても」(橋本治)より
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