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読書感想 『ディエゴを探して』 「マラドーナの追悼」

 ディエゴ・マラドーナが亡くなったと聞いた時は、不思議な喪失感があった。

 日本では1993年にJリーグが開幕して以降、ワールドカップに初出場してから7回連続しての出場も決定し、プレーヤーは海外でも活躍を続け、だからサッカーは日本でもメジャースポーツになってきた感覚がある。

 ただ、マラドーナが現役として活躍し、そのピークは1970年代から1980年代とも言われているから、その頃、日本国内でのサッカーは「冬の時代」などと表現されていたくらいだから、サッカーというスポーツへの関心が明らかに薄かった。

 それに、私自身だって、熱心なファンから見たら、マラドーナについて何かを語る資格はないのも分かっているし、さらには、極東の遠い島国から、主にテレビ画面などを通してしか知らないのだけど、それでも、そのプレーの次元の違いは伝わってきた。(1度だけ、日本のワールドユースではチケットが取れなかったため、ビールの売り子として、少しだけその姿を見かけた記憶がある)。

 だけど、「ドーハの悲劇」と言われるほど、初めて自国に関係あるように思えた1994年のW杯では、マラドーナは、ドーピングと判断され大会期間中に追放されたプレーヤーとして、おそらくは日本では印象づけられ、その凄さが十分に伝わることなく、その後は残念なことにさまざまなスキャンダルと共に報じられることが多くなった。

 2010年のW杯には監督としてアルゼンチンを率いたものの、現役時と、監督の両方でW杯優勝というドイツのベッケンバウアーのような輝かしい成果を達成することはできなかった。記者会見での暴言の方が印象が強かったかもしれない。

 それから時間が経ち、2020年に突然、マラドーナが亡くなった。

 普段はすっかり忘れているのに、1970年代から1990年代のサッカーに関する時間のことを思い出し、そして、やはり年月が決定的に流れていて、当たり前だけど、人は死ぬことを思った。

 結局、自分もそうだけど、ディエゴ・マラドーナの本当の凄さを分からないままだったのではないか、といった妙な喪失感があったのを、さらに時間が経ってから気がついた。一人の人間のことを本当に分かることはないのではないか、といった無力感もあったと思う。

 おそらくは、そうした気持ちから、さらに踏み出して、ディエゴ・マラドーナの生きてきた時間をたどり直した人が、アルゼンチン在住の日本人だと知って、その作品を読んだ。

「ディエゴを探して」  藤坂ガルシア千鶴

1989年3月、私はディエゴ・マラドーナへの憧れから、大学卒業とほぼ同時にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにやって来た。

 その後も、著者がサッカーのことを書き続けてきたことを失礼なのだけど、ほとんど知らなかった。著者は、マラドーナが2020年に亡くなってから、改めて、その生きてきた過程をたどり直す。元プレーヤー、パーソナル・トレーナー、サポーター、ジャーナリスト、他にもディエゴ・マラドーナと関わりのあった人たちにインタビューを行った。

 マラドーナにはどうしても「悪童」というイメージがつきまとう。過去の様々な不祥事や言動からは、そう思われても仕方がない。「サッカー選手としては素晴らしいが、人間としては……」という意見を抱く人が多いのも当然だろう。
 だが、アルゼンチンでマラドーナをよく知る人たちの考え方はまったく逆だ。彼の素顔を知っている人たちは、「サッカー選手としても素晴らしかったが、それよりも人として最高だった」と言い切る。モウリーニョが言うように、寛大で、気立てのいい人だった。常に弱い者の味方で、困っている人を助けるためなら後先考えず即行動に移す男だった。

 こうした作品は、偉大なサッカープレーヤーだったディエゴ・マラドーナを讃える、といったニュアンスが強くなりがちで、もちろんその気配と無縁ではないのだけど、この本の特徴の一つとして、「マラドーナ」として世界的な存在になる前の時代にも、改めて焦点を当てたことがあると思う。

7年間

 仮に私が「ディエゴ」を知ってもらうためにドキュメンタリーを作るとしたら、1969年(8歳)から1976年(15歳)までの7年間を選ぶ。「天才児ディエゴ」がプロデビューして「マラドーナ」になる前の段階で、その後歩むことになる輝かしいキャリアの起点となった重要な時期であり、アルゼンチンの人々から狂信的に敬愛された理由にもつながる大切なステージである。 

 マラドーナの才能にいち早く気づいたのは、幼馴染であること。
 8歳のマラドーナが、普段は内気でありながら、プレーの見事さだけでなく、年齢を疑われるほどサッカーに関しては落ち着きがあったこと。
 そのうちに観客が多く訪れ、その前で魔法のようなプレーを披露し続けたこと。

 その一方、マラドーナは有名になればなるほど辛い体験を味わうようになった。相手チームの選手やサポーターから、貧民街の出身であることを嘲笑され、野次られたのである。

 その当時を知るディエゴの幼馴染でチームメイトは、こんな話をしている。

 「野次はピッチにいる俺たちの耳に全部届いていた。でもディエゴは野次られた分だけやり返していたから、まったく逆効果だった。そして結局、さっきまで罵声を飛ばしていた人たちがディエゴのプレーに拍手して試合終了になるパターンでね。そのたびにディエゴはうつむいたまま、にやりと笑っていたよ」 

 そして、13歳になった時は、すでに広く注目を浴びることになった。

1973年12月18日から5日間にわたってコルドバ州エンバルセ市で開催されたエビータ全国大会は「マラドーナ伝説の起源」とも呼ばれている。

 マラドーナは、大会中、フリーキックから、信じられないほど急角度で曲がるボールを蹴り、しかもそれで2得点を挙げた。
 そんな活躍をしながらも、準決勝で敗れた。

葛藤

 そして、当然ながら注目を浴び続ける人間としての葛藤もあるはずで、そのことも、ディエゴ・マラドーナの身近にいた人物の証言として、あまり語られたことがないようなことまで明らかにされたのが、この作品の特徴だと思う。

 マラドーナが15歳でプロデビューした時にチームのキャプテンを務めていたリカルド・ペジェラーノは、「ディエゴの壮絶な人生はあの頃からすでにはじまっていた」と語る。
 1976年当時のアルヘンティノスは2部降格の危機にあった上、深刻な赤字を抱えていた。ところがマラドーナが1部リーグでプレーするようになると、「10代の天才選手」の存在はたちまち広く知れ渡り、国内外のクラブから次々と新全試合に招待された。そして、クラブはその興行収入によって多額の収益を得るようになった。 

 そのチームで、マラドーナは5年連続でリーグ戦での得点王になるので、シーズンごとに、さらに注目されるようになっていく。

 ある遠征で、チームバスが滞在先のホテルに到着すると、入口周辺にはいつものように大きな人だかりができていた。興奮して窓ガラスを叩く音、紙とペンを見せながらサインをせがむ者、スターを近くで見ようとしてガードを作る警備員と揉み合いになる者。その光景を見るなり、マラドーナは突然大声で叫んだ。
 「マラドーナなんか糞食らえ!」
 その一言だけを吐き出すと真っ先にバスから降り、自ら群衆の中に飛び込んで行って黙々とサインをしはじめた18歳の若者の姿を黙って見届けるしかなかったことに、ペジェラーノはそれまで経験したことのないやるせなさを感じたそうだ。

 そのペジェラーノは、取材嫌いでもあったのだけど、ディエゴのことなら、と著者の取材に応じている。

「ディエゴが障がいを持つ子どもたちを何人もキューバに送って治療させたことなんて、誰も知らないだろう。いったいどれだけの人を助けたと思う?きっと自分でも覚えていなかったに違いない。何もかもを背負い過ぎた。でもその道を選んだのは、ディエゴ自身だったんだ」

薬物依存

 マラドーナの「歴史」を語る上で、薬物依存は避けて通れないことでもあるが、今回、マラドーナのパーソナル・トレーナーとして、11年間そばにいたフェルナンド・シニョリーニが、そのことについても話をしている。

 シニョリーニは、マラドーナがコカインを服用したことを咎めない。むしろ、コカインに手を出したおかげで救われたと考える。
「気持ちがハイになり、一時的な苦悩から解放される。その間に周囲の者の協力でリセットすることができたからだ。そうでなければドラスティックな、悲劇的な選択をしていた可能性は多分にある。ディエゴはコカインがあったおかげで生き延びたと言っていい。
 コカインに手を出した人を犯罪者のように扱う人は、家族や友人がそうなるまで、その考えが間違っていたことに気づかない。薬物を服用するようになる経緯には、必ず原因がある。ディエゴの場合、15歳でいきなりプロの世界に晒され、心のサポートがまったくないまま世界的に有名なスター選手になった。何の準備もしていない状態で未知の世界に放り出されたんだ。外に出れば身動きが取れないほど大勢に囲まれるのに、心の葛藤に独りで耐えなければならなかった苦しみを想像できるかい? 

 アメリカのW杯で、薬物使用を理由として大会を追放されるまで、シニョリーニは、ディエゴのそばにいた。

「バルセロナで握手をかわしたあの瞬間から、私は灰色の人生を捨てたんだ。すべては白か黒。中途半端は存在しない。それがディエゴの人生だった。彼は、ごく平凡だった私の人生を桁外れに素晴らしいものにしてくれた。チェ・ゲバラに憧れた純粋な反逆児には、感謝の気持ちしかないよ」

 その憧れを形にするように、チェ・ゲバラの刺青までしていたディエゴ・マラドーナは、アルゼンチンで愛されたのだけど、その理由は、どうやら、その実績だけではないようだ。取材に応じてくれたすべての人が、ほぼ同じように答えた、という。

 見事に全員が(使う単語こそ多少異なったものの)「自分の原点だった貧しい出自を放棄しなかったから」と答えたからである。

おすすめしたい人

 サッカーを好きな人たち。
 スポーツに興味がある方。
 
 そうした人たちに、もちろんおすすめできますが、今回、引用した文章も、この作品の一部に過ぎません。

 人と人が、どんな風に思いを通じ合わせることができるのか。もしくは、思いを向けることが可能なのか。さまざまな登場人物が、そのことを話してくれています。

 人間という存在を、あまり信じられなくなっている人ほど、できたら読んでもらえたら、と思っています。このすすめ方も、サッカーが好きな人間のバイアスがかかっているのは間違いないのですが、そこだけにとどまらず、改めて人間の多面性を知ったような気がしたからです。

 亡くなった人を思い出し、話し合い、さまざまなことを感じ、考える。
 そういう意味では、見事な追悼にもなっている作品だと思います。




(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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