「本当に困っている人」という言葉を、そんなに簡単に、使ってもいいのだろうか。
「本当に困っている人」は、日常的に使うには普通の言葉だと思う。
だけど、特にここ15年ほど、支援の現場で使われると、独特の意味合いを帯び、それは、個人的には、そんなに簡単に使っていい言葉のようには思えなくなっている。
介護の現場
個人的なことだけど、仕事もやめ、介護に専念し、介護が終わった後は、生活自体ができなくなるのではないか、という不安がずっとあった頃に、「本当に困っている人」という言葉を聞いた気がする。
介護保険は2000年から運営されていて、その頃から介護生活に入ったから、当然、利用もしていたのだけど、最初に大幅な「改正」をしたのが2005年の時だった。利用者の家族として感じたのは「サービス抑制へ舵を切った」だったし、その実感は、後になるほど、そんなに外れていないのがわかってくる。
その2005年の頃に、専門家と言われる人から、繰り返し聞いたのが、サービス抑制ではなく「本当に困っている人には、十分なサービスをするために」という言葉だった。
それを聞いて、思っていたのが、目の前にいる、私のような介護をしている人間は、「本当に困っている人」ではないんだ、だった。さらには、耳も聞こえなくて、ほぼ歩けなくて、90歳くらいの、介護保険の利用者である義母も、「本当に困っている人」ではないのかもしれない。「もしかしたら、私たちくらいの困っている人は、介護保険を使うな、ということでしょうか」と言いたいような気持ちになり、もちろん、そんなことを言ったら、来週からデイサービスが使えなくなるかもしれないから、黙っていた。
だけど、この時のもやもやした感じは、今も残っているような気がする。
今でも聞く言葉
それから時間が経っているが、「本当に困っている人」という言葉を、今でも時々、聞くこともあり、やっぱりもやもやしている。
よく聞く「論理」は、2005年の時と同じように、支援にも限界がある、という話だ。
例えば、「困っている人」を全部助けていては、予算も人も足りない。だから、「本当に困っている人」を助けるべきだ、という「論理」なのだけど、よく考えたら、そんなに為政者の視線ばかりで考えていいのだろうか、という気持ちと、そんなに安易に、使ってはいけない言葉ではないか、と改めて思う。
それは、「本当に困っている人」という言葉を使うと、同時に「まだ本当には困っていない人」を想定してしまっていることになるからだ。
それは、「困っている人」の選別を(いつの間にか)してしまうことにつながりやすい。さらに気がついたら、その「基準」を恣意的に作ってしまうことさえあるかもしれない。結果として、「困っている人」の「選別と排除」になり得る可能性も考えたほうがいいと思う。
それは、現場をそんなに知らない人間の考える、的外れな見方なのだろうか。
例えば、近年、注目が高まっている「子ども食堂」でも、こうした「本当に困っている人」≒「来てほしい子」に関しての課題はあるようだ。
「来てほしい子が来ない」という運営側の課題認識の背景には、気になる家庭の子どもの顔が浮かんでおり、その子どもが来ない、ということを心配しているわけです。いわゆる要支援家庭といわれる危険な赤信号が灯っている子に、行政が届かない支援を届けることは、立派な貧困対策です。一方で、貧困家庭でなくとも居場所がなかったり、課題を抱えている黄信号の子に、新しい居場所のきっかけを与えたり、参加や体験の場を提供することも、同様に予防的側面が強い立派な貧困対策です。
世帯年収はその基準を上回っていたとしても、例えば「両親が共働きで毎日家で一人でご飯を食べている子」や「手料理を作ってもらったことがない子」「家族団らんを味わったことがない子」は子ども食堂での手料理や体験、居場所を必要としています。子ども食堂に来ているからには、来たい理由があるのだと思います。そのように子どもを選別せず、「すべての子」に開かれているところに、行政の支援ではできない民間の自発的活動であるこども食堂の強みがあるのです。
「本当に困っている人」
例えば、想像するしかないけれど、本当に困っていたら、助けを求める、といった発想すら思い浮かばないほど、追い詰められているのだろうと思う。私自身が、介護に専念していた時に「本当に困っていたかどうか」は分からないけれど、介護をしていて、死にたいと思っていたような時は、誰かに助けを求めようという気持ちすらわかなかった。
そうなると、アウトリーチ型の支援で、支援側から出向くしかないのかもしれない。
だけど、その「本当に困っている人」からの発信がない以上、見つけるのも難しいと思う。もしかしたら、「本当に困っている人」の支援は、予算をかけても、まず探すことさえできない可能性すらある、と思う。
心配なのは、来年、私しと、子供は、どうなるのでせうか。後少しのお金で、一年持つか、持たないかの不安と、同時に、其の後は、どんな生活に成るのでせうか、家賃を無事におさめきるか、そして又、三月には、再契約仕無ければ、おられないけれども、その契約金どころか、毎日、毎月の生活費を、はら、はら、した毎日で、来年は、何んとか、決心しなければならないが、相談する人もないし、役所などに相談した所で、最後は、自分で、決めねばならない。
自分自身も、こうした場合の支援に対して、何かを言える資格も能力もないし、具体的にどうすればいいのか、分からない。だけど、まだ困窮が軽い段階で、役所などに相談すれば、なんとか支援してくれる、というような情報を伝えることはできないだろうか。また、その支援を求めるときに、自責の念や後ろめたさや、恥のような思いを、どうすれば減らせるかを、考えられないだろうか、と思う。
「困っている人」が支援を求めれば、その時点で「困っている状態」から脱するきっかけがつかめるかもしれない。だけど、「本当に困っている人」という表現が社会で飛び交っていれば、その「困っている人」は、自分はまだ「本当に困っていない」から、と支援を遠慮してしまったり、避けたりしてしまうことで、「本当に困っている人」になってしまう可能性も高い。
(自分自身が、介護をしていた時に、「本当に困っている人」という言葉を聞いた時、そんな遠慮するような気持ちになったこともあった)。
少なくとも「本当に困っている人」という表現に対して、もう少し注意深くあるべきではないだろうか。
この事件に対する、一般の「意見」でも、“事件を起こすまで、同居して1ヶ月は短い”という見方があった。もし支援側も、そうした見方をしてしまった場合、事件を起こすまで、「本当に困った人」とは思われないかもしれない。ただ、不遜な想像だと思うのだけど、個人的には、介護が始まったばかりで、2週間、眠れないような厳しい介護が続けば、このような事件が起こっても、おかしくないと、思う。
黙らせる言葉
「本当に大変な人は、社会的な発言をする力もないし、余裕もないのだから、社会に文句を言える人はまだマシなのだ」という発想だ。それは半分当たっているかもしれない。しかしそのロジックは、必死に声を上げた人に対して「声を上げる余裕がある」と言って無視する格好の言い訳になりうるのだ。
つい先日も、この書籍の紹介をさせてもらったばかりなのだけど、この文中の「本当に大変な人」という表現は、「本当に困っている人」とかなり近いニュアンスがあると思う。
社会に何かをいう人は、当然だけど、大変でなければ声をあげない。だけど、声をあげたことによって、「まだそんなに大変ではない」と無視されるのであれば、結果として「本当に大変な人」になってしまうだろうし、「本当に大変な人」を増やしてしまうように思う。
こうした場合の、「本当に大変な人」という表現は、「わきまえた困窮者」というような存在として設定されているように思え、現在、社会的に有利な状況にいる人たちが、「気持ちよく助けてあげられる人だけ、助ける」といった意味合いまで感じてしまうのは、考えすぎなのだろうか。
申し訳ないのですが、まだ未熟で、かなり混乱している部分も多いと思います。それでも、「本当に困っている人」という言葉を使う時に、それは、もしかしたら返ってマイナスになることもあるかもしれない、などと、少しでも考えるきっかけになったら、幸いです。
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