「ツムラ漢方薬・番号の秘密?」を見つけた時の「小さい喜び」
ウチには、漢方薬があることが多い。
#19 小青竜湯
喘息なので、カゼをひくことを避けた方がいい、と言われている妻が、医師から処方されている「小青竜湯」が棚にある。
だから、この「19」に、自然となじみができている。
もしかしたら、この番号自体に、不思議な親しみのようなものまであるかもしれない。
#1 葛根湯
本当は、調べれば、すぐに分かるのだけど、なんとなく、おっくうで、他の「番号」の薬のことは、あまり知らないままだったのだけど、歩いている時に、道路に落ちていた薬の袋が「1」だった。
それは、「葛根湯」で、よく聞く名前だったから、やっぱりメジャーな感じもしたし、なんだか、この薬が「#1」であることは、勝手に納得してしまった。
それでも、自分や自分の家族に処方される漢方薬の番号は気にするものの、やっぱり調子がよくない時に飲むものだから、普段は、それ以外の薬に関して、あまり関心が向くことがなかった。
欠番
つい先日、そんな漢方の話になって、私が「#1は、葛根湯」ということを妻に伝えると、「どうせだったら、3番くらいまでは、知りたい」というリクエストがあったので、ツムラのホームページを検索する。
「001」 ツムラ葛根湯(ツムラカッコントウ)
「002」 ツムラ葛根湯加川芎辛夷 (ツムラカッコントウカセンキュウシンイ)
「003」 ツムラ乙字湯(ツムラオツジトウ)
「2番も、葛根湯なんだ」という妻の感想があったのだけど、漢字が難しく、フリガナがないと読めなかったし、読めても意味が推測しにくい。
乙字、となると、さらに意味が分からない。
そのページを見ていると、「4」がない。
そのことを妻と話した後、すぐに思った。
欠番は、他にもあるのでは。
ページをさらに進めて、他の数字の漢方薬を確認する。
「13」がない。「42」がない。もしかしたら、と思って、もう少し見たら、「49」もない。
それを見つけて、なんだかうれしかった。
縁起が悪い、ということで、欠番になっているのだろうと推測し、それが、ある程度、当たっていたからだった。
とても小さいのだけど、これが「発見の喜び」といったものだと思った。
ただ、「13」は、キリスト教文化圏の縁起の悪さだから、漢方で、それを欠番することには、勝手に微妙にもやもやした。
情報
少し検索したら、この番号の欠番については、すぐに分かった。
ツムラの漢方エキス剤は1番から138番まであります。しかし、4,13,42,44,49,94、129、130、131、132は欠番です。
「94」までは考えが及ばなかったし、その後の数字は、考えもしなかった。それでも、縁起の悪さによって欠番になった、という推測は、どうやら当たっていたようだった。
茵蔯蒿湯は、もともとツムラが42番を付けていましたが、縁起が悪いとして135番に変更、クラシエは4と2の間にゼロを入れて402番に変更したという説があるそうです。
さらには、この番号自体が、どうしてあるのか?についても、改めて知ることができた。
漢方薬の名称には普段使わない漢字も多く使われており、全て正確に漢字で書くのは至難の業です。当時、処方医から「製剤名が書けない」「書くのが面倒」という声があり、メーカーは漢方製剤名のハンコを作って配布していたそうです。また、同時に番号を書くだけの方が早いという医師も多かったことから、漢方製剤番号が使われるようになりました。「日本で漢方エキス製剤が広く使われるようになった最大の要因として、漢方製剤番号を付けたことが挙げられる」と新井氏は指摘しています。 その番号は、もともと各社が、それぞれ異なる番号を付けていたが、シェアを伸ばしていたツムラに他社がそろえていきました。
(↑新井氏とは、日本薬科大学薬学部漢方薬学分野教授の新井一郎氏)
漢字の難しさが、この番号の定着につながったようで、そのエピソードは、やっぱり納得がいくことだった。
発見する喜び
この漢方薬の番号については、おそらくは常識的なことであり、それまで調べるのをサボっていただけであり、「発見する喜び」などというのは、大げさだと分かっている。
だけど、最初に、自分で規則性を「発見」できたと思った時は、確かに、気持ちが明るくなるような嬉しさがあった。
これがもし、人類が誰も知らないことを見つけたとしたら、それは、どれだけうれしいのだろうと思うと、ちょっと想像が難しい。
ただ、自分の性格的な癖でいえば、誰も行かないような場所へ行って、そこで誰も知らないことを見つけてくることよりも、日常的に、誰もが目にして、知っていて、だけど、「見えて」いなかったことを、発見する方が、うれしいのだと思う。(たぶん、面倒くさがりなだけですし、もちろん、何の発見もしたことはないですが)。
そうであれば、もし自分が発見するのであれば、ニュートンの万有引力の法則のように、誰もが、ものを落ちるのを見ているけれど、それが「引力」というものの存在があるのでは、と仮説を立てて、それを証明するような「発見」をしたいのだと気がつく。
ただ、ニュートンのことを少しでも知れば、そういうことこそ、本当に「天才」と言われる人にだけ許される「発見」だと分かり、あきらめるしかなくなる。
でも、そこまでいかなくても、実は広く知られていることであっても、自分が見つけた、という「小さい喜び」は、これからもあった方がいいのかも、と往生際が悪く、思っている。
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