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読書感想 『日本の包茎』 澁谷知美 「ある種の暴力の歴史」

 このタイトルは、男性にとっては微妙な感情を揺り起こす。
 だから、半笑いのような態度で接することが多くなると思う。
 そんな風な気配で、テレビ番組で触れている女性の学者もいた。

 ただ、実際に読むと、個人的には、その態度が間違っていたことに気づく。
 これは、「男の体の200年史」というサブタイトルがついているものの、男性が男性におこなってきた「ある種の暴力の歴史」だった。

「日本の包茎 男の体の200年史」 澁谷知美


(注 ここから先、主に男性器に関しての話が続きます。もし、不快に思われる方は、これ以上、読むのを避けていただければ、幸いです。よろしくお願いいたします)












 男性器の「仮性包茎が恥ずかしい」という「常識」を作り、仮性包茎手術をブームにしたのは、高須クリニックの高須克弥院長だという話をどこかで読んだ。

 様々な雑誌での「仮性包茎は恥ずかしい」という記事が多かった時代も知っているから、それに対しては、何となく納得してしまっていた。そして、もし、この「日本の包茎」を読まなければ、この「定説」を、そのまま信じ続けていたと思う。

 それについて研究者である著者の澁谷氏は、こう断言している。

(2007年の高須克弥のインタビュー)
 この証言で明らかになっているのは、包茎手術ブームが美容整形医によって意図的に作られた「ビジネス」であったということである。事実、一九八〇年・九〇年代の青年誌や中高年向けの雑誌には美容整形医が手術をすすめる記事や広告があふれていた。(中略)だが、高須の証言によって解明されているのは包茎の歴史の一部にとどまるうえ、かならずしも正確ではない。たとえば、「僕が包茎ビジネスを始めるまでは日本人は包茎に興味がなかった」というのはいい過ぎである。のちに述べるが、病気治療ではない、ペニスの美容整形を目的の一部とするような包茎手術はすでに一八八〇年代に存在した。 

 それは、明治時代まで遡るから、「日本の包茎」の歴史はとても長く、少なくとも現在、生きている人間は、その価値観から自由でないかもしれない、と考えると、その根深さに少し怖ささえ感じる。

「仮性包茎」への感覚

 日本人男性の多くは包茎であることを恥ずかしいと思っている。(中略)包茎者がマイノリティならば、恥ずかしいと思う気持ちもわからないでもない。しかし、仮性包茎は日本人男性のマジョリティであるといわれる。

 今を生きる男性であるならば、例えば「仮性包茎はマジョリティ」という事実を知っても、「包茎であることの恥ずかしさ」と「露茎であることの優越感」は、理屈ではなく、それこそ、そこから完全に自由になることが難しい感覚であるのは、共有できると思う。

 それは、男性器が「外部」に出ていて、プライベートな部分ではあるものの、場合によっては、目視によって、その形状の違いの比較が容易であることとも関係しているかもしれない。また、江戸時代の浮世絵に見るように、非現実的なほどの巨根で露茎が、おそらく「理想形」として描かれ続けているから、それは、どうしようもなく「自然」に、植えつけられているような感覚の可能性もある。

(例えば、テレビのバラエティ番組で、裸になるシーンの前に、男性器に関して「むく、むかない」の話は、今でもされている。それは、冗談混じりではあるし、もちろん画面で放送されることはなくても、包皮をたくし上げて、「露茎状態」にしないと「恥ずかしい」という感覚が共有されている、ということだと思う)。

 ただ、個人的にどのように感じるとしても、その「男性器の見た目への感覚」は、長い歴史によって、社会的に、さらには、「ある種の暴力性」とともに、蓄積され、継続されてきたものだと、この著書を読んでいくと、少しずつ分かってくる。

戦前の「検査」

 著者によると、「ペニスの美容整形を目的の一部とするような包茎手術はすでに一八八〇年代に存在」しているから、その「歴史」は、かなり長くなるのだけど、「仮性包茎は恥ずかしい」という感覚が、かなり暴力的に植え付けられたと思えるのが、戦前の様々なエピソードだった。

 日本が第二次世界大戦で負けるまで、男なら一生に一回は受けさせられた身体検査がある。医師の前で全裸になり、ペニスや睾丸の状態を調べられる検査である。包皮を剥いて、包茎であるかどうか、性病でないかどうかも確認される。これをM検といった。Mara(魔羅。ペニスの意)の検査だからM検である。

 本来はプライベートな場所のことなのに、拒否することができず、しかも、人の目がある中での検査。だから、ここでは、「仮性包茎」であっても「たくしあげる」ことによって、「露茎」を装うことが「常識」になっていたのではないか。だから「露茎」が多数派である、という、「間違った数字」によって、より「仮性包茎の恥ずかしさ」が増進されている、という「歴史」も語られている。

 あたかもすべての人が露茎であるかのような事態が出現する。そして、「大人の陰茎はふつう、亀頭が全部露出しているものだ」という誤認が生まれる。本当はそうでないにもかかわらず。 

暴力的な扱い

 では、なぜ包茎であると恥ずかしいのか……という玉ねぎの皮むきのような問いが延々とつづくことになるわけだが、そこは明らかになっていない。「包茎は恥ずかしいから恥ずかしい」以上のことは説明されていない。 

 ただ、恥ずかしいだけであるならば、そんなに問題が大きくならないのかもしれないが、「包茎は恥ずかしい」という常識によって、「包茎ならば、いじめてもいい」という風潮が強くなると、それは、深刻な影響になってしまうだろう。

 そんなことを思わせる戦前のエピソードもある。

 例えば、小説家の外村繁は、自身の体験をもとにしたとして書いたと言われる作品の中で、徴兵検査の予備検査のシーンを描いてる。

「ひどい包茎だね」

 それが医師の第一声であり、そばで看護婦が笑いをこらえている。

 医師は意識していないかもしれないが、包茎検査を介しての凌辱がおこなわれた事になる。

 体の特徴という、本人の努力ではどうしようもないことで、こうした扱いを受けるとしたら、それは「暴力」といっても間違いではないと思う。

 小学校の校舎を借りて実施された国民徴用令にもとづく身体検査では、意地悪な検査官が、検査の順番を待つ若者の股間をいじり、「お前、包茎か」とバカにすることもあった。その様子を窓にかじりついて子どもたちが見ていたという。

「包茎手術ブーム」

 さらに、戦後、1980年代から1990年代にかけて、雑誌のタイアップ記事によって「包茎手術ブーム」となる。これが、冒頭に登場する高須クリニック院長の語る「ビジネス」である。

 その雑誌のタイアップ記事のパターンは決まっていた。

①女性たちの包茎をめぐる座談会、②包茎男性の悲惨なエピソード、③医師による解説とクリニック紹介  
 タイアップ記事の影響力は絶大だった。高須クリニックでは、『平凡パンチ』や『ホットドッグプレス』、深夜番組で新しい包茎手術法が紹介されると、東京のクリニックだけで連日一〇〇人を超す男性が押し寄せた。もっとも流行っていた時は一日三〇〇人の包茎手術を手がけていたという。患者が多いあまり、包茎を切るレーザーメスの煙が立ちこめてビルの火災報知器が鳴ったという話は、高須が好んで披露するエピソードである。

 そして、どうしてここまでが可能になったかといえば、タイアップ記事が、やはり暴力的な構造であり、脅迫になっていたからだろう。

 暴力に耐えるだけの包茎者を描き、悪いのは被害者のほうだと責め、包茎者にふりかかる理不尽を避けられない現実として描く。これらの記事が読者に伝えるのは、変更されるべきは暴力に満ちた社会ではなく、「包茎チンポ」をぶら下げたお前の身体のほうである、というメッセージである。 

「包茎は恥」だと暴力的に指摘され、それへの対策として「手術」にまで追い込まれたとすれば、それは、かなりひどい話でもあるのだけど、場合によっては、「手術」の失敗で、手術前よりも悲惨な状況になることさえあったが、医師がそれを率直に認めるとも限らなかった。

「包茎手術の失敗というのは考えられないですね」と日比谷クリニックの山中秀男が語っているのは、たんなる強弁に見える。が、これはなにも強がりでいっているのではなく、医師は本気でそう思っているのだと解釈したほうがよい。ペニスを切り落とすなどの致命的な過失でもないかぎり、医師にとっては「包茎手術の失敗」というものは基本的に存在しえない、という事実の反映としてこの発言を読み取るべきである。

 この「包茎手術ビジネス」は、その後、「ターゲット」の年齢層を高くするなど、さらに広がりを見せながら、著者によれば、2013年に「ひとつの時代の終わり」を迎えた。

 だけど、今も、特に、夜のテレビ番組では、黒いタートルネックを着た若い男性が出てきて、暗に「包茎手術」を勧めるように見えるクリニックのCMが流れている。

「包茎研究」の目指したこと

 著者は、こんな疑問を持たれるらしい。

なぜ女が、しかもフェニミストが包茎研究を?

 それに対して、著者は、とてもストレートで、ヒューマニズムな答えを持っている。

 それは、男が幸せにならなければ、女もまた幸せにならないと思ったからである。本書に書いたように、男による男差別はひどい。
 こんにち、女が男から受けている有形無形の暴力の少なからずが、男が同性間の関係において受けた暴力が移譲されたものだと筆者はふんでいる。だから、男同士の関係から暴力を排したい。 
 この世から暴力を排除するために私たちはなにができるだろうか。人を支配したくなった時、その気持ちの奥底になにがあるのか自己分析する。「常識」、「当たり前」と思っていたことは誰かが「捏造」したものかもしれないと考える。ハードルは高いが、暴力をふるう人間には毅然と立ち向かう。被害にあった人をケアする。ヒントは本書の随所にちりばめたつもりだ。本書をきっかけとして、あらゆる関係性から暴力をなくす動きに連なってくれたらうれしい。


 今回、私が引用した部分は、あくまでも「日本の包茎」の一部に過ぎません。できたら、書籍を手に取ってもらい、「あらゆる関係性から暴力をなく」したい人には、ぜひ、全部を読んでいただき、私では理解の及ばなかったことも含めて、汲み取ってもらえたら、と思っています。

 特に、男性であれば、どなたにでも、お勧めしたいのですが、「男性の気持ちが分かりにくい」と感じられている男性以外の方にも、得られるものが多い著書だと思います。


 ちなみに、とても余計なことですが、著者には、今後、「日本のED」を研究してもらえたら、とも考えています。男性だと、目を逸らしがちな、過剰な競争心、意味のないプライド、過剰な支配欲、潜んでいる男尊女卑など、様々な問題点を明らかにしてくれると思うからです。



(これ↓は、男性研究者の著書ですが、同じテーマを扱っているようにも思いました)。







(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。


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