「人に見られている意識の毎日」になったら、「行動の本質」に影響があるのかもしれない。
何年か前、SNSを活用して、注目を浴び、テレビなどでよく見ていて、仕事もとても大量にしていたイメージがある人を、急に見なくなったりする。
それは、自分が知らないだけで、当然だけど、そうした人も、仕事も生活も続けているのを改めて知った。
『つながらない練習』 安藤美冬
著者は、「ノマドワーカー」の代名詞として「セルフブランディグ」の代表のように扱われていて、それはSNSと共にあったという印象だったから、「つながらない」ことをテーマにするのは意外でもあったし、だけど、短期間で注目されたら、いろいろな意味で大変なことがあったのだろうとも想像できる。
「つながって」仕事をしていた時代があり、その後に「つながらない」時間があったためか、その分、さまざまなことに気づき、だから、この書籍も、いわゆる「SNS疲れ」がある人には、かなり有益だと思われるが、その中に、こうした言葉もあった。
これは、現代になるほど言われる回数が多くなったアンディ・ウォーホルの言葉が実現したということでもあるのだろう。
ただ、この「いつも誰かに動向を見られている」という意味合いに近い言葉を、最近、読んだ記憶があった。
宇多田ヒカルのインタビュー
この時も、引用したのだけど、宇多田ヒカルが「ヴォーグ」のインタビューの中で、日本での音楽活動を一時休止したことに関して、こうした話をしている。
この常に人目を気にする感じが、安藤美冬が言うように、SNSで「つながっている」ことで、誰もがそうなっているとしたら、「行動の本質」を失っている可能性があると思えた。
もし、そうであれば、一時期の宇多田ヒカルのように、「何のために何をしてるかわからなくなってしまう」状態になっている人は、有名、無名を問わず、思ったより多くなっているのかもしれない。
行動の本質
宇多田ヒカルの言葉を、もう少し考えれば、何か行動するときに、誰かの視線を意識し過ぎてしまっていたら、行動そのものに集中できず、そのうちに、自分が何を望んで、その行動をしているのかが、確かに分からなくなってしまうかもしれない。
そのうちにどんな時でも「他人の視線」が基準になるようになると、行動だけでなく、「気持ちの本質」まで見失ってしまうことになり、それは、いわゆる「再生数の奴隷」のような状態になるとすれば、確かに、安藤美冬の書いているように「つながらない練習」は必要になってくる。
ただ、宇多田ヒカルが、行動の本質がどこかへ行ってしまう危機感を持って、音楽活動を休止し、「人間活動」を始めたのが2010年だったけれど、そのときの宇多田ヒカルの感覚を今では、比較的多くの人が感じているとすれば、それは時代の進化と言ってもいいのかもしれないけれど、その変化に人間の意識がついていっていない状態が「SNS疲れ」と呼ばれているのかもしれない。
ただ、一方で、ずっと発信し続けても、あくまでも自分の思いを届けることを優先し続ける「行動の本質」の一つを見失わないことを継続する可能性を考えてもしまうけれど、それが、とても困難なことを、「多くの人の目を意識せざるを得ない生活を経験」した二人の言葉から、改めて「行動の本質」について、考えさせてもらうことができた。
そのおかげで、「行動の本質」については、もっと考え続けないと、本当の意味では分からないにしても、その一部が、「他人の視線」、もしくは「他人の視線を意識すること」と想像以上に深い関係があるのは、分かったように思う。
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