『21世紀の「大人」を考える』③『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(前編)
精神年齢のことを改めて考えると「老人」はどこにもいないのではないか(リンクあり)、と思ったり、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」(リンクあり)と考え、そうなると、じゃあ、「まともな大人の基準」って何?という話に及んでくると思います。
それこそ、ずっと昔から考えられ、語られ、検討されつくしたことだとは思うのだけど、21世紀に入って、また混沌に戻るような流れがあって、さらにコロナ禍によって、また大きく変わって、変わり続ける中で、自分の能力の足りなさを分かりながらも、自分のためにも、「現在のまともな大人の基準」を、社会のすみで生きてきた、なんでもない人間が考えてみようと思いました。
もし、よかったら、読んでもらって、ここから、さらに考えを広げてもらえたら、ありがたくもうれしいと思っています。
「大人」とはいつからか?
何かしらの「公的」なあいさつなどで、「まだ未熟ですが」と、謙遜してみせるパターンは今だに健在に見えるけれど、でも、そこで「本当にまだ未熟ですね」(と言ったことはないけど)と言葉をかけたら、どうなるのだろうか。たぶん、その人は、怒ると思う。
それと似たようなバージョンで、「まだ大人とはいえませんから」と、すでに30を超えた人間が言うことも少なくないけれど、これも謙遜の一つのように見られているとしても、それは、やっぱり無理があると、思ってきた。
今の法律的なことでいえば、20歳を過ぎたら大人、になる。
まずは、その前提で始めた方がいい、と思うのは、「まだ大人ではなくて」と謙遜のつもりで、いい歳になっても繰り返していると、それは、いつのまにか無責任な思考に、さらには向上するはずの能力が伸びないことに、つながる可能性もあるからだ。
20歳を過ぎたら、周囲からの見られ方はいろいろとあるとしても、自分自身で無理のない範囲で、「わたしは大人になった」と思ったほうがいい。
そして、もちろん、それで何か特別な能力がついたわけでもなく、「ただの大人」になっただけなので、偉そうで申し訳ないのだけど、そこから目指したほうがいいのは、「まともな大人」だと思う。
ただ、本当の意味で「まともな大人」になるのは、やはり難しい。
「一人前」という表現
「まとも」という言葉と「一人前」という表現があって、どちらで考えたほうがいいのだろうか。
「一人前」という表現は、まだ「一人前」でない時に「半人前」というわかりやすい言い方もあるので、どちらにするのか迷ったのだけど、「一人前」は、社会の中でのポジションや、能力や、経済力などと結びつきが強そうなイメージがある。
「一人前」は、確かに重要な考えでもあるのだけど、ビジネス書などでも、ものすごくたくさん語られているような気もするし、どうしても、「何かができるかどうか」が関係しているような印象もある。
今回は、まずは、「人としてのあり方」という基準で考えたいので、「まとも」という言葉を選んで、進めたいと思います。
優しくなれること
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」(『プレイバック』)
小説の中の架空の人物のセリフだけど、これは、今聞いても、たぶんかなり普遍的なことであって、生きることの手段と目的とも言えそうだ。
タフであるのは生きていく手段。優しくなれることは生きていく目的。
昔は、「大人の男」の理想型みたいに言われていた時代もあったのだけど、今は、それが「まともな大人」の基準であると思う。
ただ、今の時代だと気になるのは、この中の「資格」という表現で、これは客観的であるという「大人」な言葉でもあるのだけど、だけど、社会的な視点に頼り過ぎていて、もう少し内側からの動機の強さを感じさせる言葉の方が、いいのではないか、と反射的に感じると、この同じセリフを、違う訳し方をしている人もいる。
矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫、1990年12月)では、「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」が正しいとしている。
この「生きていく気にもなれない」という表現の方が、21世紀の今では、かなり実感に近いように思える。
「生きていく資格がない」という「資格」という考え方は、外部の基準に頼らざるを得ないのだけど、社会がよくも悪くも安定している時は、それが信頼にもつながりやすいが、今のように価値観が混沌としてしまっては、「正しそうな基準」を探すだけで、ものすごく時間がかかりそうなので、自分の内側に基準を持ってきている矢作俊彦訳が、ぴったりくるような気がしている。
それで、改めて確認したいことは、優しくなれるように強くなる、という順番だし、目的と手段を間違えないことだとも思う。強くとは、今の資本主義でいえば、すごく稼げるような経済力も重要になってくるけど、それ自体が「まともな大人」の目的ではない。
強くて、だからこそ、優しくなれる、そんな「まともな大人」が目指すべきなのは、ほぼ不可能だとは思いながらも、おそらくは「タフでない人でも、なるべく不幸にならないで、生きていけるような社会」にすることだと思う。
その目標を忘れないことも、「まともな大人」の大前提な気がする。
仁・慈悲・愛
先日も、孔子の話(リンクあり)を出したので偏っているのかもしれないが、紀元前500年だから、かなり昔から、長いこと東アジアの基準みたいなものになっていたのは、やはり意味があるのでは、とも思う。
論語を少しだけでも読むと、仁が偉いらしい、のは分かる。
偉い、というのは変だけど、何しろ、それが目指すべきあり方で、他のさまざまな徳のようなものは、仁の前ではかすむ、みたいな印象を受ける。
仁に近い存在であり、もっとも孔子が期待している弟子である顔回は若くして亡くなってしまい、それで孔子は絶望するのだが、その弟子の凄さみたいなものは、未熟な読者のせいもあるが、よく分からない。孔子が一番ほめてるから、すごいのだろう、といったイメージが強い。
それは論語をちゃんと読んでいないから、それほどきちんと語れないのかもしれない。それでも、もっと強さが表に出ている弟子からしても、弱々しくも見える、なんだかよく分からないやつが、どうしてすごいんだ、といったことを語っていたはずだから、やはり、仁は、わかりにくいのだと思う。
だけど、仁は、今の言葉にすれば、優しさに近いのかもしれない。
仏教でも、慈悲と言う概念は、重視されているはずだし、キリスト教でも愛は大事にされていると思う。
仏教もキリスト教も、信じていない人間が、このように語るのは失礼だとは思うのだけど、こうして古代から長く人間の指針となってきた宗教や道徳の中に、現代でいえば優しさが重要だと伝え続けられてきているとも言える。
そう考えると「優しさ」は、「まともさの中の最上位」に属しているのではないか、と思う。だけど、「優しさ」は、分かりやすい凄さに欠けるので(それがあったら、変な威圧感にもなるだろうし)、よけいに何がすごいのか、分かりにくくなる。
「まともな大人」の基準
「まともな大人」の基準を、それも、今の21世紀の状況も含めて考えた時に、「強いこと」「柔軟であること」「自由であること」「学び続けること」「正直であること」「寛容性があること」「過ちを認めて謝れること」といった要素が頭に浮かび、それぞれについて、改めて検討をしても、だけど、まだ足りないものがあるようにも思っていた。
だけど、こうしたばらばらな要素を考えていて、それが一人の人間に統合されたことをイメージすると、ここまで考えてきたことに引っ張られすぎているのかもしれないが、結局は「優しい人」なのではないか、と思った。
だから、21世紀の「まともな大人」というのは、どんな状況であっても、必要な時には、誰に対しても「優しくなれる人」ではないか、と急に結論が出たような気がした。
それでも、これだけだと、やっぱり乱暴だと思うので、『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(中編)で、もう少し考え続けたいと思います。
(他にもいろいろと書いています↓。有料noteですが、コロナ禍の中で、どうすれば、少しでも「まとも」に生きられるのか?も考えています)。