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読書感想 『世界は経営でできている』  「本来の意味に戻る重要性」

 経済、という言葉に微妙な嫌悪感を抱いてしまうのは、自分が経済的には、敗者だからだと思う。


経済の語源

 そして、経済を語る人たちの一群の人たちの不思議な高揚感と、今は経済に詳しい人が、社会のあらゆることを語る資格を持っているかのような自信満々すぎる振る舞いを、つい思い出してしまうからだと思う。

 ただ、経済の元々の意味を知ると、その思いが少し変わる。

 経済はeconomyの訳語である。economyは家計管理を意味するギリシャ語を語源とする。一方、経済は漢籍中の「経世(国)済民」(世の中(国)をおさめ民をすくう)に拠る。

(『三菱UFJリサーチ&コンサルティング』より)

 この英語と、日本語の起源を知ると、すでに微妙なズレがあるが、この「経世済民」の略が経済だとすると、社会を良くして、「民をすくう」ことを目標とするのが経済のはずだ。

 そうなると、今、社会の中で目立っている経済の語られ方は「お金儲け」、もう少し表現を変えれば「利益増大」でしかないのだけど、それ自体が、実は本来の意味では「経済」とはいえない、ということになる。

 もし、元々の意味を目指そうとするならば、かなり単純な見方だと分かりながらも、経済へのイメージ自体が少し変わる。さらには、本来の意味で考えるならば、自分自身も決して経済的な敗者ではないのでは、と思えたりもする。


『世界は経営でできている』  岩尾俊兵

 どこかでこの書籍のタイトルを知って、「経営」というものに対して、あまりいいイメージを持てなくなっていたので、微妙な嫌悪感を勝手に持ってしまった。

 特に21世紀に入ってからは、「経営」がまるでコストカットとイコールのように語られ、やたらと人件費を目の敵にするようになったり、何がこれからにとって重要なのか。を考える前に、とにかく経費を削ることだけが「経営」になっているようで、その思考だけが正しい事のようになり、行政にまで、その「経営」が侵食するようになっているから、「世界」すべてが「経営」に乗っ取られたら嫌だと思ってしまった。

 だけど、自分が無知なことはわかっていたのだけど、経済と同様に、経営の本来の意味も自分の勝手な印象とは違っていた。

 本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。
 この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者である。 
 幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。

(『世界は経営でできている』より)

 この「本来の経営」が本当に実現したらいいのだけど、そこまでいかないとしても、「他者から何かを奪って自分だけが幸せになる」ことが経営のように見られていること自体が、本来は間違いであると、当たり前のように語られれば、少しは「世界」は違ってくるかもしれないと思った。

 本書の主張は単純明快である。
 ①本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。
 ②誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。
 ③誰もが本来の経営概念に立ち返らないと個人も社会も豊かになれない。

(『世界は経営でできている』より)

 かなり冒頭の部分に、この主張が書かれていて、自分が単純すぎるとは思うのだけど、「経営」への見方に対して、すでに少し目からウロコが取れかかっているように感じた。

貧乏は経営でできている

 これが第1章のタイトルだが、一般的なイメージでいっても、「貧乏」(自分もそうだけど)と経営は、結びつけやすいので、比較的スムーズに読み進めることができる。

 たとえ見た目には裕福に見えようと、あるいは実際に年収が高かろうと、出ていくお金がそれ以上に大きくて支出を抑制できないならば誰でも貧乏になる。 

(『世界は経営でできている』より)

 それは、消費カロリーと摂取カロリーのバランスを説きづつける、正しいダイエットの話のようだ。収入と支出のバランスが崩れ、支出の方が大きくなれば、貧乏になっていく。となれば、収入の低さで、自分自身は貧乏と思い込んでいるのだけれど、かなりの節約をすることによって支出を抑えているから、現時点では、貧乏ギリギリで踏みとどまっているのかもしれないとも思った。

 たとえば発展途上国に住む人々の死因の上位に下痢がある。このとき、発展途上国の人々は往々にして下痢に対し抗生物質や注射を用いた治療を要求する。しかし、下痢から命を救うには本当は経口補水液があれば良い。しかも経口補水液を作るのに必要な塩、砂糖、水、レモンは発展途上国であっても誰でも比較的簡単に手に入れられる。

(『世界は経営でできている』より)

 これは正確な情報を知らない、ということでもあるが、それを告知しない側も含めて、アンバランスが発生しているのだが、その原因は「自分の行動の目的が明確化されていないこと」だという。

 そうした「自分の行動の目的が明確化されていないこと」という意味では、働いていて稼いではいて、しかも収入が低くなかったとしても、毎日働くことが辛いと、給料日に「自分へのごほうび」と称して、多くのお金を使ってしまうことは少なくない。

 それは、支出が増えたとしても、自分が生き延びるためには必要だとも思えるけれど、ただそれが結果として貧乏になってしまうこともある。

 こうした人たちに本当に必要なのは、欲しいものは自分で作ってしまう、日々の生活や仕事の中に楽しさを見出す、ということだろう。
 たとえば普段の仕事自体を「問題解決ゲーム」とみなして、いかにすれば顧客を創造・獲得できるのか考えてみる。あるいは難しい仕事をいかに短時間で効率よく覚えられるか挑戦する。苦手な上司・同僚とどうすれば仲良くなれるのかさまざまな施策を実験してみる、などだ。

(『世界は経営でできている』より)

 こんなことは理想論だ。できれば苦労しない。といった反論は予想されるし、読者としても反射的にそうした気持ちになった。ただ、それは知恵と工夫でなんとかするという、コストや能力を必要とすることは間違いないのだろうけれど、でも、ここで示されているのは「行動の目的の明確化」でもあるはずだ。

 これがぶれてしまえば、自分の苦痛を減らすことよりも、とにかく収入を増やすことを目標にしてしまい、慣れない資産運用などに手を出してしまい、そこでさらに損害を被って、より貧乏になるという負のスパイラルに陥ってしまう可能性もあるから、今以上に貧乏にならないために、こうした振り返りは必要なのかもしれない。

 仕事を楽しめる状況を創り出すことで、行事、パチンコ、居酒屋、タバコ等々に浪費せずに済むかもしれない。あるいは仕事を楽しむという方向性でなくても、お金がかからない行事を企画する。家で居酒屋風の食事を作ってみる、スマートフォンを眺める代わりに図書館で借りた本を読むといった手もあるかもしれない。

(『世界は経営でできている』より)

 これも考える時間と、知恵や工夫は必要だけど、ただ慣れた気晴らしだけを続けるよりは、これまでとは違ったことに気がつける可能性はあると思う。

「価値創造」へ踏み込むこと

 この書籍は、すべては「〇〇は経営でできている」という項目で並んでいる。

 例えば、2章は、「家庭は経営でできている」であり、親子関係にも、こうした視点を提案している。

 本当は、親子関係においても経営をおこなうべきだ。
 具体的には、「A:親がこの生き方を決めつけてしまう」「B:親が子の生き方を決めつけない」という対立の究極の目的が「C:子供に幸せになって欲しい」というものだとすれば、AとBがそれぞれCにどう寄与できるかを考えてみるべきである。
 すると、たとえばAによって「取り返しのつかない失敗をさせない」、Bによって「自由に伸び伸びと育ってもらう」という寄与が、それぞれありうると気付くかもしれない。
 その後は、「取り返しのつかない失敗をさせない」ことと「自由に伸び伸びと育ってもらう」の両立を考える。AとBの両立は無理でも、こうした「Cへの寄与同士の両立」ならば可能だからだ。

(『世界は経営でできている』より)

 こうした話し合いや考えをするためには、親子以外の誰かが立ち会う必要もありそうだけど、大事なことは「究極の目的」を見失わないことのはずだ。

 それ以降も「経営でできている」ことが、項目別に並んでいる。だから、自分が興味があることから読めるという意味では、読みやすい本なのかもしれない。

 恋愛・勉強・そして虚栄では、価値の創造への議論に、本格的に足を踏み入れているように思える。

 まずマウンティングは、必ず敗北する理由を、考えたら当然と思える理由を説得力を持って展開し、そのあとに、虚勢を張る理由を「尊敬を得たいから」と指摘し、だからこそ、そこに価値創造ができると断言する。

 尊敬という価値は誰もが今この瞬間から創り出すことができる。ためしにまずは目の前の人を尊敬してみることだ。するとその相手も尊敬で返してくれるだろう。こうして尊敬を「限りある資源」から「無限に生み出せる価値」に変えてしまえばいいのである。尊敬を無尽蔵に生み出せるようになればマウンティングは無意味になる。

(『世界は経営でできている』より)

 確かに、これができれば、おそらく「虚勢を張る」こととは無縁になっているはずだ。

本当に「世界は経営でできている」のかもしれない

 その後も「〇〇は経営でできている」という項目が並ぶ。

心労
就活
仕事
憤怒
健康
孤独
老後
芸術
科学
歴史

 歴史は、国家という言葉と結びつきやすい。

 国家は国民が共同で作り上げた虚構であり、国家自体は究極の目的にはなりえない。
 究極の目的になりうるのは「国民一人ひとりの幸せ」のはずである。国家も、政治体制も、政治理念も、人間が作ったもの=人工物である。本来ならば、人間を幸せにしない人工物は捨てられるだけである。

(『世界は経営でできている』より)

 確かにそうだった。古代から徳を失った権力者は倒していい、という常識もあったことも思い出す。

 最後の章は、人生について、だった。

 世界から経営が失われている。
 本来の経営は失われ、その代わりに、他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で、利己主義の、俗悪な何かが世に蔓延っている。本来の経営の地位を奪ったそれは恐るべき感染力で世間に広まった。
 ここまでの十五章でみてきたように、「本来の経営」の欠如はすべての人の人生に不幸をもたらす。経営概念の誤解は個々人に実害を与え、社会を殺伐とさせる。
 プラトンの時代からドラッカーの登場まで、人類史における本来の経営は「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だったはずだ。

(『世界は経営でできている』より)

 つまり、私のような社会の隅で生きている人間まで、「俗悪な何か」を経営だと思い込まされてきたことになるのだろうか。

 本来の経営の代わりに現代社会の王座に君臨しているものの正体も明らかになるだろう。それは「経営ならざるもの」「有限な価値を巧妙に奪い取るための狡知をめぐらすこと」「価値有限思考」ともいうべきものだ。こうした非・経営の狡知が金儲けや投資の知恵として喧伝されているのである。 

(『世界は経営でできている』より)

 だから、この書籍は、さまざまな分野において、「本来の経営」を取り戻すための方法と、何よりその思考について書かれた本だと分かる。

 その具体例については、実際に本書の全体を読んでもらえたら、人によって、切実だったり、身に染みるような点も違うとも思われるが、どちらにしても、現時点では、本来の意味での「経営」は主流にはなっていないようだ。

 だから、本当の意味で「経営で世界ができている」と言えるようになったら、もしかしたら、世界はもっと生きやすくなっている可能性がある。


 現代を生きる人であれば、そして、私のように「経営」という言葉にいいイメージを持っていない人ほど、必読の作品だと思いました。


(こちらは↓、電子書籍版です)。




(他にも、いろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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