「江戸時代」を想像してから、「現代」まで考える。
皇居の周りに、ランナーがたくさんいる。
警官も多く見かける。
堀もあって、そこに白鷺がいたりする。すごく白い。
東京都内の地下鉄・竹橋駅で降りて、近代美術館に行く時に、そういう光景を見ることができて、皇居は、江戸時代には江戸城があって、というより、江戸城が皇居になったわけだから、ここにそのまま歴史が続いていて、比喩的に言えば、江戸時代まで直接的に遡れる。
そのそばの東京駅近辺は、ビルが建って、ビルが壊されて、またビルが建っていくはずだから、この場所だけ変わらない、というようなことを思うと、少し不思議な気持ちになる。
「江戸時代」の武士の人口
江戸時代の日本の人口ははっきりとした数はわかっていませんが、おおよそ3000万人くらいだったと言われています。そのうち武士の割合はどの程度いたのかといえば、7%程度といわれています。
江戸時代の支配階級は武士で、その人口は、当時の日本の中では、7%程度らしいから、10人に1人以下の人間が「支配」していた、ということになる。
しかも、今と比べたらかなりきつめの支配だったかもしれず、例えば、無礼斬りなどという「制度」があったりして、それは武士の特権で、武士に対して「無礼」を働いたという理不尽な(事実よりも主観的な)理由だけで、「町人」は殺されてしまうようなことだったらしい。
それが、本当に数多くあったのかどうかは、よく分からないが、それに対して、例えば、江戸時代の「町人」は93%だから、そんなことがあっても、約300年も我慢していたのが不思議だった。
つまり、そんな理不尽なことがあったら、町人は93%もいるのだから、武士を一気に襲ったりすることもあってもおかしくない、などと思ったりもするからだった。
刀の威圧
だけど、それは、自分の無知に過ぎない、というか、世の中を知らない、に近い発想だと改めて思ったのは、この本の中の発言を知ってからだった。著者の与那覇潤氏との対談の中での、政治史学者の河野有理氏のこんな言葉がある。
日本の為政者は武士ですから、基本的には戦闘者で、最後まで刀を捨てなかった。儒学的に考えれれば、戦闘者という「人殺し」は統治の任に携わるにふさわしい人間じゃない。そんな人殺しが統治しているなんて野蛮だよねというのが、中国とか朝鮮半島から見た江戸時代の日本だったわけです。
これは、儒学的な見方なのだけど、こうした言葉で、安直かもしれないが、江戸時代の光景を、本当かどうか分からないけれど、少し前よりもリアルに想像できた。
いわゆる時代劇では、武士の象徴として、二本差しと言われるように、刀をさしている姿は、フィクションとしてはよく見てきた。だけど、それは「お茶の間」向けだから、ほとんどの場合は、人殺しの道具としての側面は強調されず、刀での斬り合いをしたとしても、血飛沫が飛ぶことは、映画などを除けば、ほとんどない。
だから、気がつけば、江戸時代を支えている武士の刀の威圧感を忘れてしまいそうになる。
それは、現代に例えれば、支配層だけが、拳銃を持っていて、それも外からはっきりとした形で分かるということだから、一部の国が要人警護をする時に、これ見よがしなほど大きい拳銃を持っている、ということなのかもしれない。と思いながら、江戸時代が現代と決定的に違うのは、大きい武器(というか場合によっては凶器)を持っているのは、警護だけではなく、要人本人まで持っているということだった。
それは権力と武力が一体化していることを、常に視覚化している、ということだから、そういう刀という武器を持った支配層が、普通にその辺りも歩いているのは、緊張感があって、7%くらいの少数でないと、「町人」などにとっては、会う機会が増え過ぎて、怖いのかもしれない。
武士は、何かあったら「無礼斬り」をしてくるような、命を奪うような存在であって、その威圧を漂わせるために、それほど使わないとしても、ずっと刀を手放さなかったということを思うと、ちょっと怖いし、だけど、それが政治のリアル、ということなのだろう。
その怖さで支配していた部分も大きいかと思うと、江戸時代の風景は、(想像に過ぎないけれど)ちょっと違って感じられる。どの武士も、刀を持っていて、その凶器が目に触れるようになっていて、その上いつでも使える態勢にいる人間が町を歩いているのだから、やっぱり威圧感があったのだと思う。
だけど、生まれた時から、その世界にいたら、刀慣れ、ということもあるかもしれないから、その時の町人や農民の気持ちは、やはり想像しにくいのかもしれない。
21世紀の支配層
現代は、そういう威圧感は無縁ではないか、と一瞬思うかもしれないけれど、江戸時代とは違って、すぐに目に触れる形ではないけれど、警察や軍隊はある。
それは、たぶん、状況によっては、江戸時代の武士の刀のように感じられるかもしれないが、交番などで、長い棒を持って立っている警官がいる時には、やましくなくても、微妙に威圧感が伝わってくる。警察官の腰にぶらさがっているところに、拳銃もあるはずだ。それは普段は見えないのだけど、確実に武器ではある。それは、国家というものの「刀」の一種なのだとは思う。
「世界のトップ62人の大富豪が、全人類の下位半分、すなわち36億人と同額の資産を持っている」
このデータは、「世界トップ62人の大富豪」と下位「36億人」という比較をしていて、だから、全体としては、本当に「半分」ではないのかもしれない。
ただ、単純化し過ぎてはいけないのだけど、62人と36億人の比率は、62:3600000000で、これは昔の支配層の武士が全体の7%といったことは比較にならないほど、少ないのは明らかで、そして、この大富豪の「武器」は、想像しかできないのだけど、やはり「富」であり「お金」ではないだろうか。
それは、ありがちな例えだけど、「アメとムチ」で言えば、江戸時代は「ムチ」である「刀」で支配していたとすれば、現代の大富豪の支配は「アメ」でもある「富」を使って支配をしているのではないか、と想像できる。
だけど、その「アメ」による支配があるとしても、私のような貧乏な人間にとっては、おそらくは間接的すぎて見えないし、そこに至るまでには、すでに「甘さ」も抜けてしまっているとは、思う。
「富」による支配の見えにくさ
そして、同時に思うのは「ムチ」による支配よりも、「富」という「アメ」の支配の方が見えにくく、そのことによって、さらに長く続きそう、ということだ。
江戸時代から明治時代にうつったのは、歴史的な必然があったかもしれなくて、詳細は分からないので素人の思いつきに過ぎないが、変わるべきモデルケースとして西洋の先進国があったし、倒すべき対象として刀を持った武士階級が存在し、目標も敵も見えやすかったせいもあるかもしれない。
今は、目指すべきモデルケースも、敵と言える存在も、一見、分かりやすい形で提示される場合はあるが、少し冷静に考えると、「本当のモデルケース」や「本当の敵」は、とても分かりにくい。(この本当の、という言い方は下手をすると、すぐに陰謀論に取り込まれてしまうから、注意も必要だけど)。
だから、圧倒的に経済的格差が広がり、広がることによってその格差がさらに固定化しやすくなり、貧困は以前より可視化されたとしても、大富豪のあり方は見えにくいままにされていることもあって、やはり、「本当のあれこれ」は、わかりにくいままなのかもしれない。
当然だけど、脅しによる支配は限界があるとしても、「富」による「アメ」支配は、場合によっては「快」と一緒で、「依存」すら生みそうだから、すごく手強そうだけど、普通は、私もそうだけど、その手強さを実感することすら難しそうだ、と改めて、思う。
それと比べると、江戸時代の武士の刀は、とても分かりやすい象徴だったのかもしれない。
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