この書籍のことを、最初にどこで知ったのかは覚えていないのだけど、その内容については、忘れられなかった。
医学部受験を母親に「強要」されて、9年も浪人し、そして、その娘が母親を殺害する。
そんなことがあるのだろうか。という思いと、そうした当事者がどんな気持ちでいたのか。そういうあまり上品とはいえない好奇心のようなもので、読みたいと思った。
だけど、同時に、とても重い内容だという覚悟のようなものもあった。
『母という呪縛 娘という牢獄』 齊藤彩
最初に、意外だったのは、この殺人を犯した女性が30代前半で若いと思ったが、著者が、さらに若かったことだ。
こうした事件は注目を浴びやすいし、同時に、動機が詳細になることも少ないから、もしも、そのことが綿密に語られるのであれば、それは、ある種のスクープ的なものだから、それを形にできた取材者としての自分を、不謹慎かもしれないけれど、誇るような気配になってもおかしくない。
だけど、意外(といっては失礼だけど)なことに、著者は、ずっと控え目な姿勢のままだったと思う。
冒頭、面会の場面から始まり、犯罪の加害者・高崎あかり(仮名)に関して、34歳。黒縁眼鏡。黒髪を耳の下くらいのポニーテール、という外見の様子と、その几帳面さと礼儀正しさを表すような言動も、簡潔に描写されている。
ただ、ここから著者の姿は奥に引っ込むようになる。ただ、真っ直ぐに、加害者と被害者との間で起こった出来事が、前景になっていく。
家族の問題は、おそらくは、どこの家庭にも潜んでいて、だからこそ、それが、このような事件にまでならないように、といった思いが、この本には込められているように思えた。
もちろん、とても悲惨な事件であり、それが、自分とは全くの無縁とは感じられない重さはあるものの、「このような事件にまでならないように」という思いがあるから、読後感は、ただ救いようのない感覚に、ならないのだろう。
すごい作品だと思う。
(※ここから先は、暴力描写があります。DVや虐待などで、フラッシュバックの可能性がある方は、ご注意ください)。
子ども時代
この本の大部分は、「あかりの手記をもとにして、母娘の過ごした年月を再現」する方法が採られているのだけど、その解像度がとても高い。冷静で正確な印象も強い。
だからこそ、あかりの子ども時代から、母親の行動は、間違いなく「虐待」という言葉が当てはまることが多いのも、わかる。しかし、それは同時に、母親自身でも、どうしようもないような気持ちの動きもあるように思えてくる。
その激しさは、配偶者にも向けられ、そのせいもあり、父と母は、あかりが小学6年生の春には、別居することになった。
これを「極端な価値観」と否定するのは簡単かもしれないが、そうした「思想」が、どのように母親の中で芽生え、成長し、定着したのかについては、わからないままだ。
罵声
受験勉強ののち合格した私立中学では、成績が下がっていったことがある。それについて、母親がどれだけ怒るのか予想もつき、だから、あかりは、成績表の「偽造」をしてしまったこともあった。
この部分は、おそらく「あかりの文章」をほぼそのまま使ったと思われる。これは、明らかに「虐待」というより、傷害といっていい行為であり、薬缶という表現を使うなど、漢字の知識も豊富だが、何より、この冷静な再現力に、恐れと驚きを感じるし、その過酷さも想像できる。
医学部志望
その動機や理由は、やはり、分からないままなのだけど、母親の妙子は、娘のあかりを、医者にすることにこだわっていた。高校時代、とにかく医学部受験以外の選択肢がなかったようだ。
ただ、あかり本人に動機が弱く、理系の科目に苦手意識もあったため、医学部受験をするには、成績が届いていない。だから、担任教師との三者面談も、実りのある時間には、ほど遠くなる。
そして、母親の「監視」の元での受験勉強は続く。
さらに、母親の「独特」の勉強方法を強いられ続ける。
しかも、模擬試験などで、受験合格ラインの偏差値まで、足りない「数」だけ罰が与えられる。
ここから、10回、背中を殴られる描写が続く。それも、おそらくはあかりの手記が、ほぼそのまま載せられているようだった。
この出来事を書くのは、本人にも相当な苦痛があったと思われるのだけど、それだけ、心に刻まれてしまっていることなのかもしれない。などと推察すること自体が、不遜なことだろうと思うものの、この再現の正確さには、怖いほどの凄みを感じる。
家出
最初の受験は失敗し、その後、9年間も、ずっと医学部、それも地元の国立大学を目指しての受験を強いられている。それは、虐待としか表現できない日々が続くことでもあり、だから、あかりは、何度も家出をしようとし、住み込みの就職をしようともした。ただ、母によって連れ戻されてしまうし、就職面接の採用合格を知らせる電話も母親が断ってしまう。
20歳になってからも、探偵を雇ってまでも、就職しようとする娘の動きを母親は阻止し続けた。
殺意
そして、20代後半で、ようやく医大の看護学科に、しかも首席で合格し、勉強を続け、卒業後は、看護師として就職が決まりそうな時、母親は、別の「目標」を持ち出してくる。
さらに、母が、娘のスマホを破壊するという「事件」まで起きた。
全く無関係の読者に過ぎないので、何かを語るのは不遜だとは思うのだけど、それでも、あかりは周囲に対してSOSを何度も出していて、その時に、何かしらの適切な支援ができていれば、やっぱり結果は違ってきたのではないか、と思ってしまう。
さらに、母親自身も、おそらく何かしらの問題を抱えて、本人としては戦うように生きてきたように思えるから、どこかの時点で、誰かが何らかの助力ができたのではないか、というような気持ちにもなる。
これも、とてもごう慢で失礼な推測になるのだけど、これは、本当に純粋に「殺意」と言えるのだろうか。とにかく、この「地獄」から抜け出したい。それが第一の欲求であり、そのために、母親の存在が邪魔になる。もちろん、かなり混乱しているのだろうけど、個人的には、少なくとも真っ直ぐに対象に向かう「殺意」とは、やや違っているように感じてしまう。
能力
警察の聴取の途中で、あかりは突然、逮捕される。その時のことを、あかりは、このように表現している。
手錠をかけられ、逮捕される場面を、このように描写した人は、これまで記憶にない。これだけの冷静さを保つことができたのは、元々の能力に加えて、とても傲慢で失礼な推測なのだろうけれど、過酷な母との生活が可能にしたような気もしてくる。その後、頑なに殺人を否認し続けたのも、同様ではないだろうか。
そのガードが緩んだのは、突き崩そうとする姿勢ではなかった。
その後、刑が確定し、囚人としての生活が始まった。
加害者は殺人を犯しているが、それでも、それまでに、どれだけ過酷な生活を送ってきたのだろうか。そんな不思議な感慨に近い気持ちが、どうしてもわき起こってしまう。
そして、同時に、これだけの話を、加害者である本人との30通を超える往復書簡によって明らかにしたというが、殺人の加害者が、ここまで詳細に気持ちも含めて伝えている、という意味で、個人的には「奇跡のようなドキュメント」に感じるのだけど、著者の送った手紙が、どのようなものなのかも、知りたいように思ってしまう。
おすすめしたい人
家族に対して、何らかの葛藤がある人。
支援の仕事に就いている方。
質の高いノンフィクションを読みたいと思っている人。
人間関係の難しさについて、感じている人。
暴力表現があるので、読む人を選ぶかもしれません。
それでも、ここまでの過酷な生活と、悲惨の事件の再現が、不適切な言い方もしれませんが、わずかですが、澄んだ印象まで感じるのが、不思議でしたので、他の読者の方によって、それが本当かどうかを確認していただきたいとも思っています。
(こちら↓は、電子書籍版です)。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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