【短編小説】私の私。
私は普段、仕事から家までのルートしか歩かない。休みの日は、家で死ぬように寝た生活を送っていた。
それなのに、どうしてなのか、あとで振り返ってみてもよく分からない。私はふと、今日はいつもと違う道で帰ろうと思った。
最寄駅から家までの道を、ぐるっと大きく回るように私は歩き始めた。高級そうな一軒家、学生が住みそうな集合住宅、客が入っているのかどうか分からないスナック…周囲を見回しながら歩き、普段は気にも止めないであろう数々の建物を眺める。
目にした景色は、私の知らない、いや、気付こうとしなかった沢山の生活が見え隠れしていた。道の脇には美しく紅葉する木々がある。サァっと葉っぱが擦れる音がする。何処からか人の声が聞こえる。部屋の明かりが見え隠れしている。電気がついたり消えたりしている。そんな事さえ自分は気に留めていなかったのだ。そんな自分に気付いた時、自身の視野の狭さを思い知り、途方もない空虚な気持ちになった。
後から振り返ってみれば、仕事が忙しく、それ以外について考える余裕の無い状態だったからであるのだが。
しかし、その時の私は、一体今まで何を見て、何を感じていたのだろう…と、柄にもなく哲学的なことを考え始めていた。
何とも言えない気持ちで暫く歩いていると、ある道が右手に見えてきた。いや、飛び込んできた、という表現が適切であろう。
肋骨の形をモチーフにしたような、アーチをした入り口で、扇形の細く銀色に輝く鉄骨が、左右交互にレトロな赤色の床から生えていた。それは如何にも不気味な道で、「よく作ったものだ」と、失礼な感想をつい抱いてしまった。
こんな道通るものかと、そのまま通り過ぎようとした時、その道の先から「コオオオォォ…」と、何かが吹き荒ぶ音がした。
え、と横を向いた瞬間、身体がふわりと浮き、私は見事に肋骨の中へ吸い込まれていった。
声を出す余裕もなく、浮き上がった際に逆流してきた胃液を必死に口を押さえて飲み込みながら、何処かへ早く着地することを願う。
体感的には10分、しかし、恐らくそれよりも早いであろう浮遊の旅先は、何と誰かの身体の中らしかった。
というのも、1分間の間に、数十回、私のいる赤みがかった部屋らしきものが躍動するからである。そしてその時、息のような「ひゅうっ」という音が聞こえてくるからだ。
恐らくここは肺であろう、と形から私は解釈した。何故か分からないが、私は先ほどと打って変わり、冷静極まりない状態になっていた。さっき、哲学的なことを永遠と考えていたからだろうか。
自分でも不思議に思うが、そんなことはどうでも良い。さて、どうするか……考えた結果、選択肢は2つだ。
この肺の機能を止めて自力で脱出するか、不規則なこの息を通常もしくはそれよりも早く動かし、その肺の動きの反動で外に出るか、だ。
少し悩んで、私は後者を選ぶことにした。
もしこれが夢だったとしても、私は人殺しになんかなりたくない。そういう単純な理由だった。
次に手段を考える。周囲を見回しても何も無い。当たり前だ。肺の中に異物があればそれは取り除く対象となる。
そう考えた時、自分は異物と判断され、免疫なり手術なりで早いうちに駆除されるのでは無いかという不安に駆られた。
恐らく時間は無い。早くここから脱出しなければ。
私は、希望少なに「おーい!誰かいませんかー!?」と声を上に向かって張り上げた。しかし、当たり前と言うべきか、反応はない。
私は、空間内をがむしゃらに走り回ってみた。振動を与えれば、嗚咽に繋がり、そのまま吐き出してくれるのではないかと考えたからだ。
暫く走り回ると、1分間の鼓動数、すなわち、空間の上下の振動数が幾ばくか増えた。
これだ、と私は思った。恐らく、この身体の持ち主は、心臓が弱っているのだ。呼吸数が減っているのだ。
ならば、とにかく振動を与えれば良い。私は元陸上部で、走り幅跳びをやっていた。その応用で、とにかく走っては飛び、走っては飛びを繰り返した。
すると、一度、ぐわんっと大きく空間が揺れ、身体が宙に浮かんだ。しめた、と思い、そのまま泳ぐ要領で上へ上へと身体を空間から引き剥がすように掻き分ける。
空間を飛び出し、くるくると身体は回り、酔いと闘いながら、流れるまま着地点を待つ。
すると、ぴょんっと、また何処かの空間へと飛び出した。
しかし、そこは外ではなくまた別の身体の空間らしかった……その事実に愕然とする。
「そんな顔をするでない。これはお主自身を守る戦いなのだよ?」と言う声が、後ろから聞こえてきた。
振り返ると、長い髭を生やし、杖をついた老人が立っていた。
『ここはどこだ?誰の身体だ?お前は誰だ?』
沢山の疑問が浮かんでくるが、どれも言葉にならない。
何処かで会った顔のような気がするが、思い出せない。
「ここが何処だという顔をしておるな。私は、まあ、ここの番人だと思ってくれ。ここは、君の体じゃよ」
そう、老人は言った。
…………は?
聞き間違いであることを願いながら、
「どういうことだ?」
と無意味な質問を投げかける。
「混乱するのも無理はない。君は、交通事故に遭って、今、瀕死の状態なのじゃよ。そして君は今、意識として自身の身体に入り、内側から自分を守る為にやってきた。お主、凄い生命力じゃなぁ」
髭を撫でながら、うんうんと自己完結したように語る老人に私は苛立ちを募らせていた。
「宗教か何かか?それとも、単に私をからかっているのか?私が瀕死状態?ふざけるな。私は、さっきまで散歩をしていたんだ。それが、何だ?瀕死状態?ふざけるな!番人ならば、ここらから早く出してくれ!」
懇願するしか今の自分にできることはなかった。だが、この時点で私はここが異常な世界であることは自覚していた。
そして私は、自身の身体の中に閉じ込められるという、現実では考えられない事実に直面していることを、彼からの説明で理解することになる。
どうやら、私は仕事の疲れが蓄積し、馬車馬のように働いていた反動か、心がキャパを超えていたのか、家の中で首を吊っていたらしい。私には記憶がないが、それは無意識の自己防衛だと言う。
そして、発見までがたまたま早く、一命を取り留めはしたが、今は生死を彷徨っている状態らしい。
「……私は、どうすれば良い?」
冷や汗が頬を伝う。
「考えてみぃ。お主は首を吊っていたのじゃ。そして、君は最初肺に入ってきた。おぉ、これはダジャレではないぞ?…そうか、どうでも良いか、まぁ良いじゃろう。とにかく、お主は肺から這い出て……これも…おっと、また呆れられる顔をするところだったな、まあ、肺から出て、今何処にいると思う?」
今何処にいるか…か。単純に考えれば…
「…肺より上の部位だな」
「そうじゃ」
「……………首か?」
「ご名答!!」
拍手と共に喜ぶ老人を前に、私は顔をしかめる。
首?一番大事な部位じゃないか。ここからどうしろというのだ…。
「途方に暮れた顔をするでない」
ほっほっほっ、と笑いながら呑気に話す老人。
「勿体ぶらずに早く教えろ」
私は短気なタチなのだ。
「内緒じゃよー自分で考えるこったな」
「……」
「あっ、因みに時間は無いぞい?多く見積もっても1時間が限度じゃろう」
「なっ…!?」
冗談じゃない。早くここから出なければ。
…………。
……早く出なければ、どうなる?
ここで私はふと考えた。
今までの自分はどうだった?仕事に明け暮れ、疲れ、首を吊ったのだろう?戻っても、また同じことの繰り返しでは無いのか?
助からなければ良いのでは無いか?このまま死を待つ方が、苦しまずに死ねる方が、幸せなのでは無いか?
私はその場から動けない。
30分ほどが経過したであろう。
……私はどうしたいのだ?
…………分からない。
50分が経過する。
このままじゃ、何もできないまま死ぬことになる…!!!
考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ…!!!!
その時、チラッと、何かが記憶の奥をチラついた。
さっき歩いていた時の景色だ。自然があり、世界には一人一人の人生があり、自分の見方次第で感動もすれば、無感動にもなる。
そうだ。人の心なんて、不安定だ。そんなものに振り回されるのは……ごめんだ。
今の仕事は必ずしなくちゃいけないものじゃ無い。別の生き方もある。世界は自分だけじゃ無い。そうだ、自分は感動する気持ちを知っていた。
考えろ、今の状態を変えるには。元の自分に戻って、新しい人生を生きる為には……。
……………私は自分の首を力一杯絞めた。
今、この世に私は2人いる。これは、矛盾する事実だ。
だから、私が…防衛本能で作られたであろう自分が消えれば、きっと…。
首がミシミシと音を立てる。口から泡が漏れ、汚物が出る。下からは尿が漏れる。けれど、痛みや苦しみは無い。
老人は、いつの間にか消えていた。
そして、意識は薄れていく。
その刹那、「わしは、君の…年後の…じゃよ…」
そんな声が聞こえた気がした。
目が覚めると、天井の眩しさに目をしかめる。
「大丈夫ですか!?自分の名前は分かりますか!?」
そんな声を聞きながら、私の目からは涙が出てきた。
ここからが、スタートなのだという実感と共に。
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