【一首評】神がかってる日は笑いながらターキーがとれる次がダメでもスペアにできる(谷川由里子)
神がかってる日は笑いながらターキーがとれる次がダメでもスペアにできる
/谷川由里子「ドゥ・ドゥ・ドゥ」
「神がかってる日は」と聞いて、「神がかってる日」って何だ?と思う。何か凄いことが起きて、今日は神がかってる、と言うならわかる。いきなり「神がかってる日は」と言うとき、その「神がかってる」をいつ誰がどう判断しているのか、不思議な気分になる。
「神がかってる日は笑いながらターキーがとれる」と読み進めて、それは「笑いながらターキーがとれる」から「神がかってる日」なのでは?と思う。そのほうが自然だから。でも、語順的には、まさに天下り的に「神がかってる日」があって、そんな日はボウリングをすればターキーがとれるし、サッカーをすればハットトリックを決められる、ということなのだろうと思う。
最後の「次がダメでもスペアにできる」で、そもそもそんな「神がかってる日」なんてないんじゃないか、ということに思い当たる。主体(≠作者)が経験したある日の話をしているわけではなくて、そういう日があればこうだろうということを言っているだけなのでは、とわかるようになる。
それを気づかせるのは「次がダメでも」に含まれる条件文のニュアンスだと思う。最後に条件文の構造が明示的に挿入されて、条件なるものに意識が向いたとき、この歌全体が「神がかった日は」という条件のもとで書かれていることを認識することができる。
これで、最初の不思議な気分はおさまった。そもそもそんな気分になったのは私だけかもしれないけれど、それは気にしないことにする。
最後に、この歌はやはり「笑いながら」が大事な歌だと思う。簡単にターキーがとれる、ではなく、「笑いながらターキーがとれる」であることで、全体の明るさがグッと持ち上がる。主体にとってのボウリングや「神がかってる日」を、正しく無責任で楽観的なものとして手渡すことに成功している。
(森)