明日には短歌に飽きてしまう青松輝へ
(この記事は、2020年4月23日に森の個人ブログに掲載したものを、掲載時の予告に従って転載したものです。内容には手を加えていません。)
(文中に引用されている短歌は、記名のあるものを除き青松輝の作品です。)
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見たことのない星へ旅するために滑走路を 終わらない工事を
/青松輝
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明日にも、青松輝は短歌に飽きてしまう。それは、仕方のないことだと思う。
岐阜亮司のこの記事が世に出て、8ヶ月が経とうとしている。この記事に書いてあることが、少しだけ位相を変えて現実になろうとしている。
8ヶ月前、記事に対する、というより、記事で紹介された青松輝に対する反応は、あまり好意的でなかった。そんな人は短歌から出ていけばいい、と言う人もいたし、短歌は伝統的に何者でもない人に味方するから仕方がない、と言う人もいた。
青松輝の短歌や評論に対して真っ向から批判がなされる、というわけでもなかった。声の大きな人の感情につられて、表層の態度だけが言論の対象となった。岐阜亮司の最初の狙いからはかけ離れた状況になった。
8個ある消化器をきみが片付けるまでをただ待ってる あと6個
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限りある人生の中で、何に時間を割くか、僕たちは選択しないといけない。青松輝はそれが知的な営みであれば、何をさせても異常なスピードで上達するだけの馬力をもっている。それは当然、青松輝自身も十分に理解していて、それでも短歌を愛しているから短歌に取り組んでいるのだ、と言っていた。
もらとりあ(無の枕詞)無理してるわれらのもらとりあ 無数の詩
愛や情熱だけで何かを続けることは、非常に尊いことだ。しかし、かなり難しい。短歌以外にもできることがあるのならば、なおさら。
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ゆっくりドアを開けて出ていく わたしたちのコメディーの終わり
青松輝が「ベテランち」という名義でYouTubeを始めて、それが今、猛烈な勢いで視聴者を増やしている。一週間ほど前まで100人程度だったチャンネル登録者数は、今や4000人を超えて、ついには収益化ボーダーの「1000人4000時間」を達成した。このペースで伸びれば、数万のフォロワーを獲得するのは時間の問題となる。
青松輝をクイズに取られることはなかった、が、YouTubeに取られてしまう。
十数分カメラの前で話して、数時間かけて編集した動画をYouTubeにアップすれば、数千人が再生してくれる。100人くらいが動画にコメントをつけてくれるし、Twitterでは「ベテランち面白い」というツイートをたくさん見ることができる。何十時間もかけて書いた十二首の連作をnoteに発表しても一切反応を返さない短歌クラスタの人たちが、「ベテランち面白い」と呟きだす。(発表された短歌は反応を返すに値しない出来であると、無言の意思表示がなされているのかもしれないが。)好意的な反応に加えて、収益化が無事通れば、少なくない額の金銭さえ得られるだろう。
岐阜亮司は、青松輝がQuizKnockで短歌の記事を担当することに希望を見出していた。しかし、ベテランちは、動画内で趣味は何かという質問に対して、「短歌」とは答えなかった。
きっと明日、青松輝は短歌に飽きてしまう。
短歌をやめるつもりはない、と彼は言うけれど。YouTubeに取り組む彼はとても楽しそうであるし、実際問題として、YouTubeに動画を投稿するのには毎日数時間の時間が割かれるだろう。歌作にあてていた時間や、第三滑走路のLINEグループで毎日のように短歌について議論を戦わせていた時間が、少しずつ削られていくだろう。既存の媒体に連作を載せることは続けるかもしれないけれど、新たな同人誌を立ち上げたり、刺激的な内容の評論を書いたり、そういったカロリーの高い営為から、順番に遠ざかっていくだろう。
エンターテイメント、円高、塩素消毒、買ってないから入らない手に
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岐阜亮司の記事を読んで、どうしてそんなやつを引き留めなくてはいけないのか、と思った人にとって、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。いま短歌をつくりたい人だけで短歌共同体を動かすことができれば、それでいい、のかもしれない。
でも僕は、歌人・青松輝をYouTubeに取られたくない。
もちろん僕も、ベテランちの動画を楽しみにしている。けれど、それと同じくらい、彼の短歌を楽しみにしている。ネットプリントをつくるたびに、一番最初に青松輝の作品を読むことになる。もちろんそこには面白い作品とそうでない作品が並んでいるわけだけれど、全てを引っくるめて非常に刺激的で、毎回、次の青松輝の作品をとても楽しみに思う。
青松輝の短歌は難解だ。それはひとえに、彼が短歌について考えていることの複雑さに起因している。書くということの倫理に、読むということの楽しみに、誰よりも敏感だからこそ、彼の短歌は一筋縄ではいかない。
どうしても言わなければならないことが初夏の晩夏のプール・サイドに
青松輝の短歌を一番近くで見てきた歌人仲間として、歌人・青松輝の読者の一人として、そして6年の付き合いのある友人として、青松輝の短歌がもっと真剣に読まれてほしいと、切に願う。それは、必ずしも青松輝作品を称賛せよということではない。それが称賛するに値しないものであるならば、どういう点がキズで、どういう点が甘いのか、徹底的に批判してほしい。彼は、自分の作品が真剣に読まれ徹底的に批判されることほど、歌人にとって幸せなことはないと言う。それがなされるに足るくらいの働きかけを、青松輝は短歌に対して行っていると、思う。
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明日には短歌に飽きてしまう青松輝へ。
青松輝には、丸田洋渡には、森慎太郎には、短歌でやり残していることが、まだまだ残っている。そしてその多くは、青松輝の存在無しに達成できないと、思う。森慎太郎は、(そしておそらく丸田洋渡も、)青松輝を短歌に繋ぎ留めるかのように、作品をつくり、評を書き、さながら囚われのシェヘラザードとして、短歌についての様々な営為を続けていく。だから——
森慎太郎も、じきに短歌に飽きるかもしれない。そのときが来たら、おそらく、すべて終わるのだろう。でも、だからこそ、そのときが来るまでは——
私立探偵みたい記憶は挨拶もしないまま早足で去るから
/青松輝
ふと 自分の気配がして振り返る 玄関が岬になっている
/丸田洋渡
だるまさんがころんだをしてタッチした人から離陸する滑走路
/森慎太郎
東京大学Q短歌会
第三滑走路 森慎太郎