天国の信号機(散文+短歌七首)
天国には信号機がある。その信号機が、昨日誰かに盗られてしまった。とても困る問題である。
信号機がかつてあった場所を訪れると、そこはとても静かになっていた。足元には青色の花が所在無げに咲いている。
そもそも、あの信号機は、天国には必要なかった。天国に来て分かったが、死ぬときに肉体は置いていくから、魂のようなものだけがこちらで行動する。だから、外見というものが消滅する――正対した瞬間に相手が誰であるかは自ずと分かる(見るということは知っているということ)――その固有性の薄さから、却って天国では集合的無意識のようなものが濃くなっている。ここに立っていて、今後ろから誰かが近づいてきている、というのが、もう感覚として「知っている」ことであり、だから、事故というのが起こるわけもなく、起こす必要も無いのである。
なのに信号機、と設置されてしばらく話題になり、みんな挙って訪れていた。しかしその奇妙さから、すぐに皆の熱は冷めていった。
まず人の世界のように柱をつける必要が無いため、ライトの部分だけが独立して浮遊している。天国には基本的に道がないため、横並びに配列する必要が無い。そもそも止まる必要も無いわけだが、製作者の好みの問題なのだろう、赤青黄の三色は変わらない(青が、青よりの緑ではなく、ちゃんと緑よりの青である)。その三色が、背中合わせにくっついていて(上から見ると三角形のようになっている)、そのために見ようとすれば必然的に見えない色が出てくる。赤と青は同時に見ることが出来ても、黄はその裏を向いて光るから見えない。この時点で信号機としての役割はとっくに剥落している。
その見た目もおかしいが、信号機には他に変な機能が付いている。人が横断するときに、合図に音が鳴るという信号機は人間界にあったが、これは曲が鳴る。誰かが通ると、ひとりでに鳴る。ピアノとドラムで構成されていて、それも七拍子、十一拍子、十三拍子、十九拍子などが往来する変拍子で、聞いているだけで躓きそうになる。通るたびに曲の細部が変わっていて、それもまた不気味で、この曲が皆の関心を削ぐものになってしまった。信号機という装置自体を知らなかった天使たちは「うるさい三つの瞳」と呼んでいるようだ。雑な把握である。
足元の青色の花がどんどんしおれていっているのが解る。
この花の名前は知らない。花に詳しい天使に聞けばすぐ分かることだが、知ってしまうということは、知りたいという感覚を放棄することでもある。この花については、永遠に知りたいままでいたい。
信号機が設置されて数日してこの花が勝手に自生しはじめた。理由は全くわからない。その美しさに見惚れた神が、天使に摘んでこさせようとしたが、摘んで移動した瞬間に花はほろほろと崩れてしまったという。ここでしか咲かない花なのだ。そしておそらく、この花は信号機が鳴らす曲によって成長している。変拍子の曲がかかるたびにいきいきとしているからだ。
○
私はこの花のことが好きで、この花を見に信号機のもとを頻りに訪れていた。そこで何となく、信号機に懐かしさのようなものを微かに感じ、そして次第に信号機のことも何だか気に入ってきてしまって、今こうして困っているわけである。信号機が無いとこの花は咲いていられない。
さて一体誰が信号機を盗んだのだろう。
作った者が回収した、ということも考えられるが、こんなものを作る奴が律儀に回収するとは思えない。河原で川に石を投げた少年が、その石があまりに好みだったから、川にその石を探しにゆく、なんてことが無いように。
別に取り返そうと思い立つほど執着してはいないが、最近はずっと訪れていたため、なんだかそこに無いと物足りなさがある。それは初めて天国に来たときの、肉体の不在へのむず痒さに似ている。
どうしたものかと思って、とりあえず辺りを見ていると、少し離れた場所に青い花片が落ちているのが分かった。すいすいと近寄ってそれを見ると、落ちているのではなく、一本だけで青い花が小さく咲いていた。私はそこに閃くものがあった。信号機の音色で花が自生したのであれば、今盗んだ者の傍にはこの花が咲いているはずである。そして運ぶときには、信号機がその者を認識して、曲が鳴りつづけるだろう。ということは、信号機が移動するその道には、花が咲きつづいているはずである。盗まれたのは昨日の話だから、まだ花も枯れきってはいないだろう。
私は小さく咲いている青い花を辿っていった。どうやら盗んだ者は相当にへんてこなルートで進んでいる。意味もないところで回転していたり、ジグザグに行ったりしている。相手は幼いのだろうか(天国に来るとみな一様に幼児のようになる。記憶や思考の能力は人間のときと変わらないが、制約というものが基本的に無いため、いつも世界が新しくそこにある。ここでいう幼いというのは、その自由さのなかで、自由にあまりに無抵抗であるということである)。
長いこと青い花を辿っていると、遠くにシンバルの音が聞こえた。私は速度を上げて、その音に向かって翔ける。
○
とうとう私は信号機を視認した。盗んだ者はその下にいた。彼(性別は有って無いようなものだが、私は既に対象が「彼」であることを知っていた)は奇妙な曲の中で、また青い花の上で遊んでいた。それは蝶のようだった。
「おい」
話しかけると、彼はなめらかに視線をこちらに移す。
正対する。
「ああ、お兄ちゃん」
彼は、ずっと昔の呼び方で私のことを呼んだ。天国では、上方の神や天使以外の者に名前は無い。だから、名前を呼ぶことは無い。わざわざ呼称を用いる必要も無い。呼ばなくても、相手はすでに、私に呼ばれているからだ。
彼も、それは分かっていて、尚それで呼んだのだろう。
「お前も来たのか、こっちに」
彼は頷いて、青い花を見つめる。
「ここはいいね、なにもかもが、そのままで」
「どういうことだ」
「だから、そのままだ、ってことだよ。下では、何かが何かのままでいることが難しかった。絶対に邪魔するものがあった。意味とか、理由とか、そういうのが一番、邪魔なんだ。色が見えなくなってしまう」
彼は陶酔したかのようにふらふらと上を見た。
「いつこっちに来た」
「この前。どれくらい前かなあ。多分、そんなに前じゃない」
「どうやって死んだ」
彼は、私を見て微笑んだ。というのも、顔はないわけだが、彼がふるえるように瞬いたから分かった。この光り方は笑っているときなのだ。それは昔に知っている。
「お兄ちゃんと一緒」
「そうか」
話を聞くと、私と同じく車に轢かれて即死だったらしい。彼は轢かれるときに見えた車のナンバープレートの番号をやけに覚えている。私が轢かれたあと、父や母は一日ですっかり衰えてしまったらしい。
「もう違う人、みたいだったよ、どっちも」
轢いた側に悪意はなく、何度も何度も謝られたが、それがかえって、父母を傷つけたという。せめて誰かを恨みつづけたかったのだろう。
「お兄ちゃんの葬式のとき、親戚とかの顔をみてるとなんか冷めちゃって。本当は死なんて大したことないのに、何故か大事がられてしまってる。それは、大事だと信じていないと自分の中で死が収まりつかなくなっているからだって分かった。人は、本質を敢えて見紛うことで気持ちよくなってる所があるね。僕はそれに飽きちゃった」
私が死んだ二年後に、彼が死んだ。自分で自分をごまかす、ということに限界が来たらしい。いかにも彼らしい理由である。
もっと細かく聞いてもいい所だが、人間だった頃の話はあまり興味が無い。弓を構えて矢を射るとき、放ったときはその放った者を注目するが、そのあとはもう視線は矢にあり、的のどこに向かうかだけを気にしている。天国というのは、放つ者と、的が消失しているようなものである。ここには、思い出すべき過去も、来るべき未来も無いのである。ただ今が、ここにあるだけだ。昨日や明日というものを、名残でつい使っているが、昨日や明日はここにはない。それは天使には通じない。
だから、目の前に彼がいて、彼の目の前に私がいる、ただそれだけなのである。それ以上のことは、すべて余計である。いや、私と彼ですら、余計である。天国はあらゆる余計から出来ていて、その余計を自覚している。そして、それについてどうも思っていない。
「ところで、お前にお願いがあるんだけど」
「何?」
「その信号機、返してくれないか」
彼はきょとんとしている。
「その信号機が無いと、花がしおれてしまうんだ」
「花ならここに咲いてるよ」
「分かってる。けど、向こうの花が」
彼は呆れたという仕草を見せる。
「天国でもそんなこと言ってるんだね。花は咲いたら枯れるし、咲く花があれば枯れる花もあるよ。ここには永遠に咲く花もあれば、永遠に枯れる花もあるだろうけど。咲くと枯れる、ただそれだけのことに、そんなになるなんて。お兄ちゃんは、天国でも死ぬかもね」
「どういうことだ」
「さあ」
彼は今も鳴り続けている変拍子の曲に身をもたれかけて、
「というか、この花、僕のおかげなんだよ」
「それはどういう」
「お兄ちゃんが轢かれた信号機の下に、青い花を供えてたんだ。青色、好きだったでしょ? 天国に来てみたら、あのとき供えた花が咲いてるものだから、はしゃいじゃって」
薄く笑って彼は花を触る。
信号機の下に供えられた花。だから信号機を移動してもその下にしか咲かないのだ。彼が天国に来てもなお咲いているということは、父母がまだ供えつづけているということだろうか。
「なあ」
「ん?」
「お前、何色が好きだっけ」
「何、突然」
「いいから」
「黄色」
黄色。また信号機の色である。
「ここに来てそんなに長くないだろ?」
「うん」
「じゃあ、そろそろかもしれないな」
どこかに、花が咲くかもしれない。辺りを見渡す。
「あ」
彼が見ている先に、黄色の花がふくらむように咲いた。
「お前、もしかして近くで死んだの?」
「そう、お兄ちゃんが死んだのと同じ通りで死んだ。別に狙ったわけじゃないけど」
へんてこな曲を聞きながら、彼と二色の花を眺めていた。いつか、この信号機と花が消えてしまうことは分かっていたが、それはもう重要ではなくなっていた。私は、この日差しのような光景で一杯になっていて、それが零れないような器はどんな形をしているのか、と考えることで必死だった。
○
天国の信号機 丸田洋渡
天国のあらゆる余計 置いてきた幼さで大きく駆けまわる
みずからの遺骸を探し青色の花を眼窩に天界から挿す
弟は知らない歌を口ずさむ鳥が立てつづけに落ちてくる
変な拍子の中でほどけた鳥たちを編み直す三色の手さばき
弟に続いて父と母が来るふるえるように瞬きながら
話さずに話し終えている 言葉とは色へと戻るからゆくゆくは
その下の花に向かって鳴りながら壊れる天国の信号機
2019/12/15