読書離れと映画 ー読み聞かせの時間の思い出からー
小学生の頃、ボランティアのお母さんが月に一度読み聞かせに来てくれていました。すごくその時間が好きだったのですが、覚えていることと言ったら、絵本のページをめくる時、お母さんが本を支えるためにぎゅっと握ったからなのか、かすかに聞こえる「ミシッ」という音と、その間だれも話さない沈黙ぐらいです。絵本の内容ではなくて。
私は「母を訪ねて三千里」という本が大好きだったらしく、毎晩母に読み聞かせてもらっていました。本当に毎晩同じ絵本をねだっていたようで、今でも時々母に、「読みすぎてセリフ全部覚えてもうたわ」と言われます。しかし、実は私自身はそこまではっきりと内容を覚えておらず、「三千里」という言葉も今ならわかりますが、当時は「サンゼンリ」とひとまず単語として覚えていただけでした。はっきり覚えていることと言えば、枕の横にある母の顔と、本を支える腕と、やっぱり「ミシッ」という音と、ページをめくる音ぐらいです。
近年、世間では読書離れという言葉をよく耳にします。
様々な理由があると思いますが、一つは、活字の代わりに「映像」という伝達媒体のアクセスが増えたからだといわれています。特に、本と映画は、何かストーリーを伝えるという点で同じ役割をはたしており、それを利用して、よく本を原作に実写化されたりしています。映画は文章が読めなくても誰でも楽しむことができ、世界中の様々な映像を鮮明に伝えてくれるのです。
それでは、本の役割はどんどんと減っているのでしょうか。
映画は、本のオルタナティブなのでしょうか。
ある人は、表紙の手触りやデザインで本を選んでしまう時があるそうです。また、とても好きな本だった時は”所有”したくなるそうです。
別のある人はまた、本は月明かりがあれば本は読めるといいました。電気が通っていない貧しい国でも、ストーリーを伝えることがきます。また、それを他の人に貸したりと、共有者を数珠つなぎに増やすこともできます。
私は、読み直すうちに汚れや傷、開きやすくなったページが出てくると若干嬉しくなります。そして、やっぱり、ページをめくる、という行為が好きだったりします。
本は、手で触れるという行為から楽しみを与えてくれます。「読んだ」という記録を残してくれ、それを共有していくことができます。自分のペースで自分の世界に入ることができます。
幼いころの読み聞かせの記憶が、内容ではなくそれ以外のことばかりのように、本は内容以外の部分でたくさんの価値を有しているように思います。
しかし、近年は本を買うとき、本屋にいってから選ぶのではなく、欲しい本を見つけてからネットで買うことが増えてきたような気がします。電子書籍の利用も増えてきました。
ウェブサイトから選んで購入するという行為は、映画には適していますが、本だと、本という存在自体が持つ多くの価値が生かされないように思います。
「読書離れ」の要因には、以上のような「購買行動のデジタル化」も含まれているのではないでしょうか。
と、私も読書離れしている人間の一人なのですが。