黄昏どきを歩く。
数年ぶりに、家族勢揃いで初詣へ行ったのがつい最近のこと。気がつけば寒さのピークも越え、3月になっていた。
忙しない日々の中、刻々と過ぎていく時間。
目の前の作業に集中していると、時計の針が進んでいることを忘れてしまいそうになる。
それでもほんの束の間のひととき。
私は「黄昏どき」の散歩がすきだ。
*
昼と夜の間、光が差し込んで景色が黄金色に染まる時間帯。現在私が住んでいる南伊豆町だと、17時から18時の間だろうか。
ここ最近は、忙しない日々から一度目を背けて、意識的に散歩へ出かけるようにしている。
自然の力に背中を押されて。
朝、昼と過ごして、夕方の集中力が切れる時間帯。
近くの散歩道に向かう途中、大きく伸びをしてみると、肩甲骨周りがバキバキと鳴った。
鈍感な自分は、ようやく肩に力が入っていたことに気が付く。
そんなときに感じる太陽のぬくもり。
下校中の学生の声や、日によって彩りを変える空の模様。
「やわらかい光景」という言葉がしっくりくるだろうか。
この時間帯のやわらかさが、張り詰めた心身を解きほぐしてくれる。
まるで「もう少し頑張ろう」と、私の背中を押してくれるかのように。
1つのことしかできない私
思えば昔から、1つのことにいっぱいいっぱいになると、周りが見えなくなる性格だった(皮肉なことに、今もまったく変わらない)。
たとえば小学生のころの、習字の時間。
4限目にある習字が思うように書けないと、給食の時間をほっぽらかしてでも、納得いくまで書かないと気が済まない児童だった。
ネットフリックスのシリーズドラマは、見始めたら最終話まで一気に見ないと気が済まない。たとえ朝を迎えても最後まで見て、翌日の仕事に支障をきたすこともあった。
習字やドラマの時間、他のことなどお構いなしに、目の前に目を向ける。時に良いことかもしれないけれど、自分自身を縛り付けていることもしばしば。
それって本当に納得いくものをつくる上で、良い選択肢なのだろうか。私は、必ずしもそうとは思わない。
ひといきつきながら
たとえば、何か文章を書いているとき。
どれだけ考えても思い付かないときは、1日置いて、翌朝になって考えると、スルスルと言葉がでてくるときがある。
他にも、ギターの練習をしているとき。
何回やってもうまくいかないコード進行を、1週間置いてやってみたら、スムーズに弾けることもある。
もしかすると、集中力がきれたとき、適度な休息をとることが必要なのかもしれない。
それぞれの風景に、光を照らして。
現在私が滞在している、南伊豆町下賀茂。
このまちの風景は飽きない。
道を歩いていると山がある。
そして隣の地域まで少し足を伸ばせば海もある。
同じ黄昏どきでも、いろんな景色を照らしてくれる光のかたちが、このまちにはある。
そして、そんな光を私はもとめている。
南伊豆町で過ごしているうちに、気づいたこと。
日の光を浴びながらぼーっとする時間。それは心のわだかまりや、張り詰めた気持ちをじんわりと溶かしてくれるということ。
黄昏どきにひといきつく時間が、自分の心をリセットしてくれるのかもしれない。
太陽の沈む時間。
何も持たずにただ歩く習慣を、これからも意識的につくっていきたい。
そして夕暮れ過ぎ、やさしい気持ちで夜を迎える。
月が上がってくるころ。まだまだ今日も、頑張れるぞ。
そんなふうに思えるように、今日もまた、黄昏どきを歩く。
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