【哲学】私の死生観 ~死んだらどうなるのか?―死生観をめぐる6つの哲学 を読んで~
コテンラジオ老いと死の歴史で紹介されていた「死んだらどうなるのか?―死生観をめぐる6つの哲学」を読み、とても興味深い内容だったので、死生観について一度まとめておきたいなと思いました。
死んだらどうなるのか?
本書で紹介される6つのパターン
説明されていた事例は下記です(対話形式で説明がわかりやすいので、興味がある方は是非本書を読んでみてください)
・1 他の人間や動物に生まれ変わる:輪廻転生
・2 別の世界で永遠に生き続ける:仏教の浄土やキリスト教の天国
・3 すぐそばで子孫を見守る:日本のお盆や魂祭り
・4 子孫の命の中に生き続ける:儒教
・5 自然の中に還る:千の風になって
・6 完全に消滅する:物質一元論(唯物論)
今生きている人で死後の世界を見た人はいないので、どれが正しいか、そもそもこの中に答えがあるのか、だれにも分かりません。宗教や信仰を非科学的だと切り捨てる立場なら、「6 完全に消滅する」になるのでしょうが、そうなると過剰に死を恐れ、受容するのが難しくなりそうな気もします。
私の死生観
翻って自分の死生観について考えてみると、「3 すぐそばで子孫を見守る」20%、「5 自然の中に還る」80%くらいのブレンドになりそうです。
八百万の神を信じる多神教民なので、一神教の神話にはあまり共感できません。転生系も創作の題材としてはおもしろいですが、自分がなにかに転生するイメージは全然湧きません…。
「3 すぐそばで子孫を見守る」については、魂を祀るという日本史に特殊な文化を受容しているので、20%くらいはありそうです。
京都の霊山護国神社には推し達の魂がなんらかの形でいると信じていますし、靖国神社の御霊も信じています。魂を祀る文化が他国に無いがために政治問題化するのだと思っていますが、丁重に祀らないと怨霊になると信じている民族なので、そのあたりは宗教の違いということで穏便に分かり合えないだろうかという気持ちで生きています。
そして、大きいベースは「5 自然の中に還る」ですね。
そもそも人間は宇宙の中のほんの一部の存在であり、膨大な因果関係の連鎖の末たまたま私が今ここに生きていると思うと、最終的には自然の中に還るとしか考えられなくなります。
最近こちらの「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」を読んだのですが、interestingかつfunnyでわかりやすくおもしろかったです。第2章「空(くう)この世はフィクション」で「縁起=ぜんぶつながっている」という話が紹介されていまして、まさにこの感覚が近いなと思いました。
自然に還る死生観はインド哲学や仏教の世界観に近いと思うので、もう少しクリアに言語化すべく、今勉強中です。
私の死生観の背景の考察
さて、このあたりの思想がどこから来ているのかやんわりと考えてみます。
私はたまたま生きており、いつかたまたま命を落とす
私の自然信仰的な死生観解釈はドラマ アンナチュラルによって明瞭になった感じがありまして、中でも所長の「たまたま生きている」発言が刺さりましたね。これが因果論と繋がってきます。
またアンナチュラルは、とある死と遺された人との関係性から生を考えるストーリーですが、人間は関係性の中で生きているということも感じました。亡くなった祖父母の思い出話をしている時に、祖父母の生を改めて感じたりしますし、身体も魂も自然に還るけれども、遺された人の思い出の中に存在は残っている、そんな気がしています。
物を所有するのは生きる過程の中のつかの間のこと
また、ミニマリストになってから生きるということ(エーリッヒ・フロム)を読んだときに、モノを持つ主体(私)の永続性の無さについて改めて考えされられました。
死を意識すると、所有それ自体に意味を感じなくなります。死んだら所有もくそもないですからね。いつか価値が上がるかも的な所有はいつか死ぬ自分にとって意味はなく、今の私にとっての使用価値があるモノだけ所有する、というのが私のミニマリスト思想の根幹です。
「生きるということ」を読んで、「人間って死ぬんだよなあ」と思った次第です。
余談
「死んだらどうなるのか?―死生観をめぐる6つの哲学」の「自然の中に還る」の例で「100万回生きたねこ」が紹介されていて懐かしくなったので、ちょうど実家に帰るタイミングで再読しました。
泣きました。
結末が分かっていても泣ける……改めて名作すぎる。
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