それは意味のある偶然
仏教は、生み出された意味への懐疑という側面を常に内包してて、生体の思惑が生み出す認識や枠組みは全て虚構だという。
自明でない事柄を自らの判断と選択によって限定していくと同時に自分の枠組みを疑い、時に枠組みを壊す。この弁証法的プロセスは自身を立ち返らせる。行きつ戻りつが精神の筋トレになるが訓練は必要。脳だけで、こねくり回してやると精神が消耗するが、身体性を取り入れれば合理的に行え気持ちいい、ヨーガや瞑想の魅力。
生まれては消え留まることのない無限のランダムな事象から、コレとアレは同一物ねと道程する、このただの直感力の內に潜む審美眼も仏教メソッドで鍛えられ、選択を誤る概念を滅す。
果たして単なる宗教的覚知に留まる事だとしてもこの妄想も言葉で許容してく。
内田樹サンのロマンチック過ぎる一面なんかも許容w。僧侶の釈徹宗サンの言い回しが時に理想系で、ロマンチックが止まらない内田サンも上手く弄ってて優しいw。個人的に釈サンが面白くて頁が進んだ。釈サンは実物の内田サンの印象を「やわらかい人」と仰って警戒バリヤが溶けた🍓
フロイトが〈単なる偶然の一致なのに時に人はそれに囚われてしまう〉と考えたのを、 ユ ングは〈確かに偶然であるがそれは意味のある偶然〉として共時性(シンクロニシティ)の概念を出す。つまりユングは〔原因を事後的に選んだ〕という心理現象に意味付けをした人。
ユング心理学の実践者河合隼雄サンには人間の意味体系を大切にしたさが伺える(人柄ヨ…)。
仏教も、内面に生きる意味、死ぬ意味を賦活させる機能がある。反面、その生み出された意味への懐疑という側面を常に内包する。
「仏教ほどカタルシスが無いものはない」とは中沢新一。まるで人生。細い糸の上を綱渡りするような中道精神への矛盾さも、仏陀の異常な個性になるが、人間らしいところだ。