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伊川津貝塚 有髯土偶 73:中央構造線と豊川用水
愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)を流れる宇連川(うれがわ)に架かった無名橋右岸脇に駐めた愛車に戻り、パンツとTシャツをモーターサイクル搭乗用に着替えて弁当を食べられる場所を探しながら宇連ダムに向かいました。この際、着替えたパンツを森の中に置き忘れてきてしまったので、翌週ふたたび無名橋右岸に向かうことになりました。幸い、その間、雨は降りませんでした。
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無名橋右岸脇から宇連川右岸に沿って延びる振草三河川合停車場線を宇連ダムに向かって遡ると、途中、乳岩(ちいわ)に登る人たち用の駐車場があり、駐車場に入りきらない車は振草三河川合停車場線を占拠していた。
振草三河川合停車場線は駐車場の上流側で左岸に渡り、宇連ダムに向かっている。
結局、振草三河川合停車場線には弁当を食べられるような場所は皆無なまま振草三河川合停車場線に面した宇連ダムの水源管理所前に到着してしまった。
無名橋から宇連ダムまで1.7kmあまり。
振草三河川合停車場線は左岸に渡って以降、宇連川の流れが見られる場所も無かった。
宇連ダムは昼間は堤頂に自由に出入りできるようになっており、堤頂への出入口脇に愛車を駐めることができた。
まずは堤頂に出て、貯水池である鳳来湖を眺望した。
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堤のすぐ上流側には流木防除設備の浮子が並んでいた。
鳳来湖の周囲を取り囲む尾根は複雑に入り組んだ凝灰岩の岩山が特徴的で、尾根が直線的だ。
上記写真の右手に位置する最奥の尾根には凝灰岩の白っぽい岩肌が露出していた。
それをUPにしたのがヘッダー写真だ。
その部分を見に行こうと、後で振草三河川合停車場線を北上したのだが、振草三河川合停車場線は途中から道路幅が狭くなり、対向の四輪車と出会うと2輪車は危険な状況になって来たので、途中であきらめて引き返した。
鳳来湖の「鳳来(ほうらい)」は徐福(じょふく)が目指した「蓬莱(ほうらい)山」の漢字を当て字変更たもので、鳳来湖の場合、変更したのは密教寺院関係者だと推測できます。
『秦始皇帝本紀』(始皇帝28年=紀元前219年)には以下のようにある。
斉人の徐市(※徐福)は次の事を上書した。「海中に三神山あり。名を蓬莱・方丈・瀛州といい、仙人が住む。心身を清めて、童男・童女と共に三神山へ行くことを請う」。そこで徐市を遣わし、童男・童女数千人を発たせ、海に出て仙人を求めさせた。 (※=山乃辺 時久 注)
一方で平安時代の僧侶、寛輔は「蓬萊山」とは「富士山」を指すとしており、謡曲『富士山』にも「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是蓬萊の仙境たり」とある。
江戸時代初期の朱子学派儒学者、林 羅山(はやし らざん)は
「士峰(富士山)元是小蓬萊」と詩に詠んでいる。
『竹取物語』には「東の海に蓬萊という山あるなり」と記され、かぐや姫は求婚者の車持皇子(くらもちのみこ)に「蓬萊の玉の枝」を採取して持参することを課している。
複数の資料を総合すると、徐福は始皇帝に東海に蓬萊山(不死山)が存在すると吹聴していたようだ。
宇連ダム堤頂の蓬莱湖とは反対側の下流部は以下のようになっていた。
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導流壁に挟まれた非常用洪水吐き(上記写真、最も幅の広い壁面)の水路が宇連川につながっている。
下記写真導流壁で挟まれた最後の部分を横一線に横切っている白くて細い濁流が見えるが、減勢工(水の勢いを落とす堤)のようだ。
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利水ゲートは上記写真左側の建物にあるようで、その建物の下流側から宇連川に流れ出ている。
この水は豊川用水の主水として利用され、中央構造線が奥三河と渥美半島を結んでいるように、豊川用水もまた鳳来湖と渥美半島を結んでいる。
もう一つ、導流壁に沿った長い屋根の建物の脇から水が放水されているが、おそらく、この建物は宇連ダムの維持・管理に必要な電気をまかなう発電施設ではないかと思われる。
Wikipediaに宇連ダムを下から見上げた写真が紹介されていたが、それは同時に利水ゲートの建物からの放水を正面から撮影したものでもあったが、まだ発電施設と思われる建物が存在しない時代の写真だった。
上記Wikipediaの写真は宇連川沿いの道路に溢れ出した木類が蓄積されている面白い写真だった。
おそらく、集中豪雨時に非常事態で洪水吐きをした後に撮影された写真だと思われる。
堤頂には宇連ダムの平面図と標準断面図が表示されていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1732266161-7oCl1j9Q4Tb8Ryv0d3k26AHN.jpg?width=1200)
平面図には利水ゲートに関する図が表示されていたが、発電施設と思われる建物は記載されていない。
![](https://assets.st-note.com/img/1732266234-0eZgMlBPqDtwksrjf5NTRHuQ.jpg?width=1200)
宇連ダムの諸元は以下の通りだ。
堤高 65.0m
堤頂長 245.9m
着手年/竣工年 1949年/1958年
宇連ダムの下流側の尾根は上流側とは対照的になだらかだったが、一部、岩の露出が見られる。
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宇連ダムの堤頂脇の振草三河川合停車場線沿いには長いベンチが設けられていたので、そこで弁当を食べた。
改めて堤頂に出て、鳳来湖左岸(北岸)に沿って北に延びる振草三河川合停車場線のコンクリート壁際を眺めると、そのコンクリート壁に分断されたような山の端が鳳来湖水面上に2ヶ所、山形に頭を出していた。
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右側の山形は少なくとも表面には土砂が堆積しているようで、土砂から養分の取れる頭頂部には潅木が枝葉を広げていた。
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下記写真山形 (左側の山形)は左側は凝灰岩が露出しており、右端部分にだけ潅木が生えているが、その部分だけ土砂が堆積しているようだった。
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気づくと、時間はすでに午後3時になっており、3時間かかる帰途に着かなければならない時間になっていた。
急いでハイウェイに向かうが時すでに遅し。
ハイウェイに入る前に行楽帰りの渋滞の波に飲み込まれてしまった。
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ダムは溜池部分を含めると、旧村が埋没する例があるように、自然の地形を利用した、人類が造形してきた最大のランドマークです。その質量が人間に感じさせるエネルギーは大きく、かつて、三船敏郎と石原裕次郎主演で『黒部の太陽』という、171人の殉職者を出した黒部ダム建造を描いた1968年公開の映画が制作され、その後も2度テレビドラマ化されています。映画版は日本初の企業(関西電力)タイアップ作品となり、巨額の興収をあげる大ヒット作になりました。それくらい多くの関係者が黒部ダム建造に関与し、国民の興味を引くテーマだったのです。現在も黒部ダムは日本最高の堤高(186m)を持つダムとして知られています。