伊川津貝塚 有髯土偶 6:塩の里の円墳
「有髯土偶 5」の記事で経緯を説明したように、愛知県西尾市吉良町の蛭子社(えびすしゃ)から同じ吉良町にある吉良饗庭(きらあいば)塩の里に向かいました。吉良饗庭塩の里には岩谷山(いやだにやま)第1号墳が移築されているからです。
海岸通の蛭子社の北240mあまりに位置する吉良町若宮西の堤防上の遠景から蛭子社の杜全景を撮影した時、
その堤防上から三河湾の波打ち際のある狭い砂浜に降りてみた。
砂浜がある場所を通りかかった時には必ずその海岸で、波に洗われてスリガラス状になったガラスの欠片を探すのを楽しみにしているからだ。
正午前後のここの砂浜は幅が3mくらいしかなく、非常に細かな砂の美しい海岸で、打ち上げられたものは何も無い砂浜だった。
おそらく直前まで、この砂浜は水面下に没していたのだろう。
上記写真遠景左手に見えるのが渥美半島の山並。
右手に見えているのが知多半島の山並だ。
中央に見えている山並は佐久島だと思われる。
さらに海岸通を400m近く北上すると、気になる海岸があったので、そのゲートに入って行ってみた。
そこには砂浜は無く、埋立地で「吉良宮崎マリーナ」と呼ばれているヨットハーバーになっていた。
ヘッダー写真の空穂(うつぼ)は、この建物内に展示されていたものだ。
日本神話などでは「靭(じん)」と呼ばれるもので、矢入れ具の一種だ。
駐車場に入って、目の前の岩谷山第1号墳を観に行った。
鎖が張られていて墳墓には近かよれないようになっている。
上記写真背後のパームツリーの並木は316号線沿いに植えられているものだ。
土砂採取事業のために石室が解体されているので、その状況のまま移築されたようだ。
石室の中央部まで墳陵は崩され、天井石はほとんどが失われ、石室が露出してしまっている。
石室の正面に回ると開口部は北北東を向いており、天井石はかろうじて1枚だけ残っている状態だった。
案内板『岩谷山1号墳』の岩谷山第1号墳平面図・側面図を見ると、以下のようになっている。
案内文は以下。
以下は移築前の岩谷山第1号墳の様子を伝える写真。
ところで、岩谷山1号墳の南脇には塩づくり体験のできる広いプールがあって、その脇には塩田関連の展示棟があった。
そこに掲示されていた吉良の入浜式塩田の当時の写真が以下だ。
案内文『入浜式塩田』には以下のようにあった。
三河湾で製造された塩の多くは矢作古川(やはぎふるかわ)、矢作川を経由して現在の足助町(現・豊田市)まで運ばれ、尾張で製造された塩を運んだ飯田街道と合流して現在の飯田市を経由し、諏訪地方まで運ばれたようだ。
足助からは陸路馬の背に塩を乗せて運んだが、その苦役のために亡くなった馬を供養するために築造されたのが馬頭観音だが、その馬頭観音が多く奉られた街道が飯田街道(=中馬街道)だった。
中馬街道と馬頭観音などの様子は以下の記事で見られます。
下記写真は吉良町の西2kmあたりに存在する豊岡浜での塩田風景。
下記絵葉書は西尾市の東側に隣接する蒲郡市の沿岸の巨大な塩樽の並ぶ風景だ。
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塩を運んだ道は「塩の道」とも呼ばれ、製塩の行われた各沿海地から主に信州(現・長野県)に向かう街道がそう呼ばれてきました。足助(あすけ)では塩の道を中馬街道(ちゅうまかいどう)と呼んでいましたが、塩を下ろした帰路はタバコの葉などを積んで、山岳部から下ろしました。塩の道の多くは製塩のメインが化学製法に代わり、塩の流通が必ずしも沿海部と山岳部を結ぶものではなくなって以降も物流の主要なルートとして残っています。三河湾・伊勢湾沿岸の塩は三河の味噌や醤油に利用され、尾張の塩は守口漬け(タクワン)に利用されましたが、赤穂(兵庫県)の塩とのコスト競争に敗れ、姿を消してしまうことになったのです。