麻生田町大橋遺跡 土偶A 163:世界樹の一族
岡崎市桜形町(さくらがたちょう)の日近城跡(ひぢかじょうあと)のある山に登って行き堀切(山城の繋ぎ部分)を超えると、帯曲輪(おびぐるわ)内に入りました。
帯曲輪内に入ると、右手には腰曲輪の丘陵が立ち上がっていた。
この丘陵の麓に沿って帯状の馬走りが設けられている。
帯曲輪を西に向かうとT字路にぶつかった。
T字路の左下部が虎ノ口(城の出入り口)、右上部が本曲輪(城郭の最高所)なので、本曲輪に向かった。
5分も登ると、平らに開けた本曲輪に出たが、周囲は樹木が繁殖しており、現在の眺望は開けていない。
本曲輪の北奥に一対の常夜灯が設置されており、その中央奥に石祠が祀られていた。
右手には土塁が盛り上がっている。
石祠に向かうと、それは石垣を組んだ基壇上に設置された石祠というよりも仏教系の石造厨子(ずし)だった。
厨子の内部には紅色の着彩が微かに残っている不動明王石像が納められていた。
顔の輪郭や体の線が柔らかな、出来の好い像だった。
この山の麓には曹洞宗の深恩山(しんおんざん) 広祥院が奉られており、広祥院の前身である密教寺院の奉った不動明王だと思われる。
不動明王像の足元にはグラスと複数の硬貨が置かれていた。
本曲輪(ほんくるわ)にはほかに土塁の片隅に頭の2文字「奥平」のみが読み取れる頭布型の頭頂を持つ板碑が奉られていた。
板碑が基壇から左にズレているのは強風によるものなのか、何らかの繰り返される微震によるものなのか。
この板碑は日近城を築城した奥平氏に関係するものと思われる。
本曲輪に掲示された案内板『日近城の歴史』には以下のようにある。
上記『日近城の歴史』には唐団扇(とううちわ)を家紋にした下記「奥平氏家紋」が掲載されていたが、Wikipediaには奥平氏家紋の元になったと思われる、下記実際の奥平唐団扇が紹介されている。
この奥平唐団扇を見た時、直ちにユグドラシルの世界樹や宇宙樹に繋がるものだと理解した。
ユグドラシルは北欧神話に登場する1本の架空の巨木だが、日本では「世界樹」や「宇宙樹」と呼ばれ、類似したものには以下熊野本宮大社の熊野牛王符の中央にそびえる烏(太陽のメタファー)の集積した大樹、
さらには奈良県の藤ノ木古墳出土の金銅製冠に見られる樹木の装飾などが存在する。
藤ノ木古墳出土の金銅製冠の樹木には烏に代わって鶏が留まっている。
ユグドラシルの世界樹に限らず、世界樹や宇宙樹は架空のものと思われてきたが、最近、スティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』で世界中に知られることになったデビルズ・タワーなどは、先史時代の巨木の根本だとする説がある。
デビルズ・タワーのような一枚岩の塔(メサ)は米国には複数存在していて、ホピ族などはそのメサの上に居住している場合がある。
名称不明だが、ホピ族の居住しているアリゾナの平原に聳えている長靴型のメサの上に登ったことがあって、そのメサの端っこから腹ばいになって真下を覗いたことがあるが、柵などは設けられていないので、凄い恐怖だった。
日本列島にもデビルズ・タワー様の塔は複数、存在する。
平家が源氏との最終決戦に敗れた屋島がその一例だ。
屋島もデビルズ・タワーのように上面は伐採されたように平らで、裾が広がっている。
ただ、デビルズ・タワーと比較しても、はるかに巨大だ。
日近城本曲輪からの下りはT字路部分から下は別ルートで下った。
こちら側の虎ノ口はプレートが立てられていた。
上記写真の右奥にも白いプレートが立てられているが、その前の道が登ってきたときの道だ。
「虎ノ口」のプレートの背後には巨石が置かれているが、この巨石は虎ノ口を遮断する時に利用するための石ではないかと思われる。
こうした巨石は下記のように他のルートにも複数置かれているのを見かけた。
上記写真の石の場合は溝を切ろうとして中止したと思われる筋が残っているが、他の部分のカットに成功して溝が設けられている。
この溝に板を挟み込めば、直ちにゲートが出来上がり、細い山道は容易に遮断できると思われる。
他にも石の溝に挟んだ側の板石ではないかと思われる巨石も路肩に放置されていた。
(この項続く)
◼️◼️◼️◼️
山城に見られる部位の「曲輪」とか「虎口」、「堀切」などは苗字に使用されています。曲輪さんとか虎口さんの実在は知らないのですが、堀切さんの存在は知っています。旧い『平凡パンチ』や『anan』(実は創刊号から2年分はパーフェクトに持っています)を覗くと、堀切ミロさんというスタイリストが登場しています。この女性はビートたけしや工藤静香などのスタイリストも担当していた有名スタイリストで、日本のスタイリストの草分けだったようです。TV出演しているのを観たら、飛び抜けて素敵な女性でした。調べてみたところ、すでに故人になっていました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?