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伊川津貝塚 有髯土偶 78:結ばれた伊豫国と奥参河

宇連川(うれがわ)の右岸(北岸)に存在する愛知県新城市(しんしろし)豊岡の築上神社(つきあげじんじゃ)から左岸に位置するという大聖寺野仏群に向かうことにしましたが、宇連川を左岸に渡るために築上神社の下流1.6km以内に架かっている宮下橋を渡って、別所街道を東に戻ってくることにしました。西貝津の集落を抜けて、飯田線の北側に移っている望月街道に再び出ました。そこから西に向かうと、しばらく飯田線は望月街道より数メートル下を走っているので線路は潅木に遮られて見えませんでした。

中央構造線 愛知県新城市豊岡 大聖寺野仏群
愛知県新城市豊岡 望月街道/別所街道/宮下橋/大聖寺野仏群

しばらく望月街道を走っていると、飯田線と望月街道は同じ高さになり、望月街道は右手の土手と飯田線の狭い狭間を抜ける道が続いた。

愛知県新城市豊岡 望月街道

やがて、右手の切り立った土手は終わり、なだらかになると、雑木林が続いた。

新城市豊岡 望月街道

この部分では再び飯田線は望月街道より低い場所を走っており、線路は見えない。

やがて、宇連川を渡るための宮下橋に出たが、望月街道は由来によれば、ここからさらに西に延びているはずなのだが、現在の望月街道は宮下橋の北側が西側の起点になっていた。
その宮下橋は赤い鉄橋だった。

豊岡 望月街道 宮下橋

左右、2基の橋からなる宮下橋は左右のどちらが先に架かったのかは不明だが、通交量が増えて、片方が増設されてたのだろう。

宮下橋から、やはり明治期に開通した別所街道に出たが、私制であることから風情があってスリリングな望月街道と違って、別所街道は管制の県道なので、特に取り上げるような景色は見られない道だった。
別所街道に入って780mあまりで、左手におびただしい数の石仏が現れた。

愛知県新城市名越 大聖寺野仏群

おそらく大聖寺が廃寺になって、石仏がここに残されたのだろうが、ここまで多くの石仏がまとまって野外に残されているのに遭遇したのは3度目で、すべて愛知県内だ。
ただ、真言宗寺院の大聖寺は豊橋市と豊川市にまだ存続している。

大聖寺野仏群は4列になって並べられていた。

新城市名越 大聖寺野仏群

最前列左には石仏以外のものがあった。

名越 大聖寺野仏群 「伊豫國」道標

石柱に「是ヨリ伊豫國」と刻まれている。
なんと、四国愛媛県にあるべきはずの伊豫國(いよのくに:伊予国)道標だ。

中央構造線 伊予国/阿波国/奥三河(大聖寺野仏群)

なぜこんな公共物を、はるばるこの地に持ってきたのかということと、いったい愛媛県からどうやって運んだのかが謎だ。
だが、四国が空海の島であることを考えると謎は解けそうだ。
愛媛県に大聖寺があるか調べてみると、2寺が現存することが判った。
江戸時代には遠距離を旅してその記念に記念碑を建てることはよくあったことだ。
この地にあった大聖寺の僧侶が伊豫國の大聖寺に行った記念に持ち帰った。
あるいはその逆に伊豫國の大聖寺の僧侶が、この地に大聖寺を開くことになって、記念に持ち込んだなどが考えられる。
どうやって持ってきたのか。
密教僧であれば、自分一人、あるいは複数人で、修行と自分の肉体的権力を示すのを兼ねて運んだこともありえそうな気がする。
あるいは道中、勧進をして集めたお布施で馬喰を雇い、馬で運んだ可能性もある。
もっとイージーな方法だと船で海路、伊豫國から三河湾に入り、豊川〜宇連川を利用すれば、運んだ方法は謎ではなくなる。
それでも、ここは標高134.6mで、宇連川は難所が多いから酔狂では運べない。
そして、伊予国とここ奥参河(おくみかわ)は中央構造線で結ばれている。

「伊豫國」道標の右隣には庚申記念碑(こうしんきねんひ)と文字碑庚申塔。

名越 大聖寺野仏群 庚申講記念碑/文字碑庚申塔

この地で2基目の庚申塔だ。

あとは全てが石仏だが、大聖寺野仏群の最前列中央の2体がもっとも大きな石像で、等身の弘法大師立像だった。

大聖寺野仏群 弘法大師立像/鯖大師立像

この2体の弘法大師立像のうち、左側の弘法大師立像は通常の像なのだが、右側の大師は右手で体長4、50cmはありそうな魚をぶら下げている鯖大師立像だった。
食卓に出る鯖の切り身や小さなゴマサバしか見たことのない人は驚くかもしれないが、マサバは体長が50cmにまでなる。

伊予国の東隣に位置する阿波国(徳島県)には現在も四国別格霊場 第四番札所 鯖大師本坊(正式名:八坂寺)が存在する。

中央構造線 阿波国(鯖大師本坊)/奥三河(大聖寺野仏群)

この鯖大師本坊には弘法大師が鯖大師と呼ばれるようになった縁起が存在する。
全部紹介すると長いので、四国別格二十霊場会公式サイトの「四国別格二十霊場」に掲載されている「略縁起」を以下に紹介する。

千二百年程昔のことです。お大師様がお四国をお開きに巡られた折、この地が霊地であることを悟り、御修行されました。ある朝通り掛かった馬子に積み荷の塩鯖を乞われましたが、口汚くののしられ、ことわられました。馬子が馬引坂まできた時、馬が急に苦しみだし、先ほどの坊様がお大師様と気づいた馬子は鯖を持っておわびし、馬の病気をなおしてくれるように頼みました。お大師様がお加持水を与えると馬はたちまち元気になり、お大師様は八坂八浜の法生島で塩鯖をお加持すると生きかえって泳いでいきました。そこで仏の心を起こした馬子は、この地に庵をたて古今来世まで人々の救いの霊場といたしました。鯖を三年絶ってご祈念すると願いごとがかない、病気がなおり、幸福になれるといつしか人々に、鯖大師と呼ばれているのです。鯖大師でこの由来により鯖を三年食べないことにより子宝成就、病気平癒はじめ、あなたのお願いごとがかなえられます。

『四国別格二十霊場会』公式サイト「四国別格二十霊場」
https://www.bekkaku.com/?page_id=20

この縁起に出てくる八坂八浜(やさかやはま)は四国太平洋岸東に位置する海岸線で、1度愛車で走ったことがあるのだが、この前後80kmほどの海岸線は、たしかに山を降って漁港を通ると山に登って次の漁港に降るということを繰り返す地形になっている。
八坂八浜の南側には鯖瀬川が流れており、河口から鯖瀬川を320mほど遡ると右手(東側)に鯖大師本坊が位置している。
そして、「八坂八浜」という地名はアルタイ系サカ(釈迦)族を意識させるものだ。
八坂八浜の沖には大小様々な島が存在するのだが、法生島に関する情報が見当たらない。

ところで、左側の弘法大師立像は右手で持っている錫杖(しゃくじょう)の頭部が破損したからなのか、綺麗にカットされて無くなっているようだ。

大聖寺野仏群 弘法大師立像

鯖大師立像の右隣は千手観音立像だった。

大聖寺野仏群 千手観音立像

千手観音の原型はヒンドゥー教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々だとみられている。
2体の弘法大師立像と、この千手観音立像が像高が飛び抜けていて、大聖寺野仏群の主役だと思われる。

上記の鯖弘法「略縁起」では省略されているが、弘法大師が馬子に積み荷の塩鯖を乞われたのは坂道の連続する八坂八浜で重い荷を背負った馬が不憫だったからだった。
こうした馬が苦役の途中などに死亡すると造立されるのが馬頭観音なので、大聖寺野仏群の中に必ず馬頭観音はあるだろうと、探してみた。
ありました。
最後列右端に三面八臂(さんめんはっぴ)の馬頭観音坐像が。

大聖寺野仏群 馬頭観音坐像

馬頭観音の頭髪にはクッキリと獣の頭部が入っている。
その持物は右手上から金剛棒、斧が確認できる。
左手は蓮華か。
あとは涎掛けの陰で読み取れない。
馬頭観音の梵名ハヤグリーヴァは以下のヒンドゥー教最高神ヴィシュヌの異名だという。

ネパール バクタプル トリヴィクラマ 体操選手のように足を上げたヴィシュヌ

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伊豫國(いよのくに)の名称由来に関して複数の説があるようです。現在の伊豫國、愛媛県には道後温泉があるため、「豫(よ)」を「湯(ゆ)」からの転嫁説があったものの、それは否定されています。愛媛県伊予市上野には伊予神社が祀られていますが、この神社には月夜見尊と愛媛県の県名の由来となった愛比売命(エヒメ)が祀られています。伊予神社の境内社である弥光井神社(別名:真名井神社)の祠近くに、きれいな水が湧き出る場所がありますが、この湧き水を昔の人は「いゆ」と呼び、転じて「いよ(伊豫)」という地名の由来になったという説があります。

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