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麻生田町大橋遺跡 土偶A 152:辨天は貝塚に祀られた

豊橋市牟呂市場町の中道橋(なかみちばし)から牟呂用水の右岸沿いの道路を下り、牟呂用水(牟呂松原幹線水路)の終着点である柳生川との合流点手前に設けられた牟呂用水がプール状になっている場所に到達しました。

牟呂用水の右岸(下記写真左手)の最終地点(上記MAP撮影地点)から上流側を眺めると、水路というよりは池に近い状態になっており、対岸には高木の森が見えていた。

この森が牟呂市場町の市杵嶋神社の杜だった。
市杵島姫命を祀ったこの市杵嶋神社と牟呂松原幹線水路中流の豊川市金沢町に存在する、おゆき弁財天を結んでいることが、

牟呂松原幹線水路をたどる動機になったのだが、その一社だ。
この市杵嶋神社には、お神酒を上げようと考えていたのだが、この日にここに至ったのは予想外だったので、お神酒を持って来ていなかった。
コンビニを探していると、確実に陽が落ちるので、市杵嶋神社に上がり、参拝したのだが、社内に奉られた最後の行者堂を撮影する前に完全に陽が落ちてしまった。
それで、豊橋市の3ヶ所、牟呂中村町の作神社・牟呂市場町の牟呂王塚古墳趾と市杵嶋神社は5日後にやって来ることになった。

牟呂市場町 市杵嶋神社の社頭は牟呂用水を向いた南側に位置していた。

社頭には左右対になった幟柱があり、4段の石段から始まっており、奥に向かって社地の標高は高くなっているようだった。
頭頂が頭襟型の社号標には「市杵嶋神社」と刻まれており、石段の奥10mあまりの場所に設けられた石鳥居を高木の社叢が覆っている。

社頭前の牟呂用水沿いの堤防脇に愛車を駐めて、ワンカップのお神酒を持って石段を上がり、無舗装の表参道を進むと明神鳥居の前に出たが、すぐ奥には同じ石造の八幡鳥居が見えており、一ノ鳥居と二ノ鳥居を持つ神社であることが判った。

コンクリートでたたかれた短い表参道が二ノ鳥居の前にあり、表参道は奥に見える瓦葺の拝殿に向かっている。

一ノ鳥居をくぐると、コンクリートでたたかれた参道はすぐ終わっており、二ノ鳥居の奥から再び始まっていることが判った。

二ノ鳥居の手前の参道までの両側は常夜灯だったが、二ノ鳥居の先からは石灯籠に変わっていた。
表参道の突き当たりにある拝殿は向拝屋根を持つ入母屋造のようだ。
表参道両側の並木は直立した樹木は1本も無く、それぞれが異なった形に曲がりくねっており、いずれも高木だ。

参道を進み、表参道両側の樹木が尽きると、空の開けた拝殿前に出た。

濡れ縁を持つ拝殿は1.2mほどの高さの石垣上に設置されていて、その躯体は正面の格子戸以外はガラス窓で囲われていた。
左手には瓦葺の境内社らしき建物が並んでいる。

ガラス格子戸の前まで上がって、戸の敷居にお神酒を上げ、参拝した。

祭神は市杵島姫命が単独で祀られている。
格子の間から拝殿内を見ると、奥に幣殿と本殿が連なっており、幣殿入り口の桟には「辨天社」の扁額が掛かっている。
排仏希釈以前は弁財天が奉られていたことが判る。
最奥には立派な本殿が祀られている。

拝殿前から降りて、左側面に回ると、幣殿の屋根は銅板葺、本殿は瓦葺切妻造平入の覆屋だった。
両殿とも木部と窓のアルミサッシは茄子紺で統一され、玉垣で囲われている。

本殿の銅の妻飾りを見ると、丸に五三ノ桐の神紋がレリーフになっていた。

牟呂市場町 市杵嶋神社の創建は神亀元年(724年)となっており、聖武天皇(しょうむてんのう)の時代(701〜756年)に当たる。
聖武天皇の時代は丸ごと、シナ地域に存在した女帝、武 則天の周王朝(690年〜705年)の時代に入ってしまう。
両国のふたりの帝が「武」の文字を持つのは偶然ではない可能性がある。
そもそも、日本の天皇の名を和名ではなく漢風諡号(かんぷうしごう)で表記するのが当たり前になっているのはおかしなことなので、日本人なら疑問に思わなければならないのだが、日本史の教科書に関与している文科省は、おかしな部分を修正もしていないし、おかしくなっている理由を一切、学校で教えていない。
それはともかく、桐の木は鳳凰が留まる樹木とされており、五三ノ桐紋は皇室が使用した副紋であり、正紋が十六菊花紋となっている。
ただ、聖武天皇の時代には未だ使用されていなかった紋だ。
室町時代に最初に朝廷が五七ノ桐紋を足利尊氏に褒賞として与えたのだが、他に豊臣秀吉と徳川家康にも五七ノ桐紋は与えられた。
家康は当初は使用を拒否していたが、後に使用するようになっている。
五三ノ桐紋と五七ノ桐紋の使用者は以下のような違いがある。

五七ノ桐紋=朝廷が征夷大将軍に下賜した家紋
五三ノ桐紋=征夷大将軍が使用を許可した家紋

ところで、桐紋の使用されている本殿脇の足元に直径50cmほどの切り株があり、その切り口にびっしり、風雨で純白に漂白されたハマグリの殻が並んでいた。

中にはサザエやホタテガイの殻も混じっている。
地面をよく見ると、全面に貝殻の欠片が混じっていた。

ここが貝塚であることに初めて気づいた。調べてみると、「市杵嶋神社貝塚」と呼ばれる貝塚であることが判明した。『全国遺跡報告総覧』によれば、「縄文晩期の貝塚」ということだ。

本殿の裏面に回ってみると、背後は下り坂になっており、社殿は貝塚の丘陵上に祀られていることが見て取れた。


ここからもっとも近い海岸線である柳生川河口である三河湾までは1.5kmあまりだ。

(この項続く)

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あまり正確とは言えませんが、市杵嶋神社の社殿脇の標高をYahoo!Mapで調べてみると、1.6mでした。縄文晩期で標高1.6mでは海面下になってしまいます。地盤が沈下したのか、あるいは、Yahoo!Mapの標高情報はスポットを調べられる仕様になっていないようです。

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